古代では吉蘇路あるいは岐蘇,吉祖,岐岨とも書き,近世以降は木曾路が一般化する。
吉蘇路は美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)を結ぶ道路であった。《続日本紀》によると702年(大宝2)岐蘇山道の工事に着工し713年(和銅6)に吉蘇路が完成し,翌年美濃守笠麻呂以下が賞されている。経路は東山道の本路に関するとする説と,江戸時代以降の中山道のように木曾谷を通過するとする説とがあり決し難い。前説をとると,現在の中央自動車道恵那山トンネルの上を通る神坂(みさか)峠へ,中津川市付近から至る東山道の改修あるいは付替えを意味するが,《三代実録》に〈此の地は美濃国府を去ること行程十余日〉というのに合わない。後説をとると,《三代実録》に合い,蝦夷征討を前に東北地方への短縮路を開いたと考えられるが,奈良時代以降ここを通過した確実な記録がなく,V字谷の沿岸道路の維持が不可能で,ほとんど利用されなかったことになる。木曾の桟(かけはし)(現,長野県木曾郡上松町)も歌枕で著名だが,平安時代には神坂峠にあったとされている。
執筆者:水野 柳太郎
木曾路とは,江戸と京都を結ぶ江戸時代の幹線道路中山道のうち,木曾谷の北は松本境桜沢から南の美濃境十曲峠まで23里(約90km)の間の街道をさした。また木曾路の称が中山道の代名詞としてつかわれたこともあるが,これは木曾路の知名度の高さを示すものである。木曾路は分水嶺鳥居峠をはさんで,南と北に流れる木曾川と奈良井川(信濃川の上流)に沿って,南北に縦貫し,その間に贄川(にえかわ),奈良井,藪原,宮越(みやのこし),福島,上松(あげまつ),須原,野尻,三留野(みどの),妻籠(つまご),馬籠(まごめ)の11宿が設けられ,また福島には江戸時代の四大関所福島関が置かれていた。宿駅は幕府の交通上の機関として設けられたものであって,各宿とも公用人馬の継立て,公式の宿泊・休憩などを担当する問屋場(とんやば)・本陣・脇本陣をはじめ,これらの業務にたずさわる問屋役・年寄役・伝馬役などの宿役人の家や,一般の旅人の休泊のための旅籠屋・茶屋,それに諸商人・諸職人の家など,200軒から400軒が街道に沿っていわゆる宿場町を形成していた。木曾路の宿場町の特色は,こうした交通運輸関係業者のほかに,美林地帯であるとともに耕地が少ないといった立地条件から,奈良井,藪原,福島の八沢町,妻籠などでは40~100軒の木地屋,漆器屋,櫛屋などの木材加工業者を擁していたことである。
木曾十一宿はこのように小規模ながら近世宿駅都市としての形態を整え,幕末にはこの狭い峡谷に当時としては驚異的な約3万5000人の人口を擁して繁栄していた。木曾川に沿って狭い谷間に通じていた木曾路は,奇岩怪石の中を奔流する清流と千古の森林におおわれた渓谷美で知られ,この街道を往来する人々の目を楽しませた。とくに寝覚ノ床(ねざめのとこ)は街道随一の名所として,現在国の名勝に指定されている。1911年中央本線の開通とともに木曾路は急速に衰微し,過疎化の道をたどるようになった。
執筆者:生駒 勘七
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…東海道に対して単に山道ともいう。木曾を通るので木曾路ともいう。江戸の北西の板橋宿を起宿として武蔵,上野,信濃,美濃を経,近江の守山宿を最後の宿として草津宿で東海道に合し,大津を経て京都に達する。…
※「木曾路」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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