コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

堀田正盛 ほったまさもり

5件 の用語解説(堀田正盛の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

堀田正盛
ほったまさもり

[生]慶長13(1608).12.11. 江戸
[没]慶安4(1651).4.20. 江戸
江戸時代初期の下総佐倉藩主。江戸幕府の老中。正吉の子。通称,三四郎。寛永 10 (1633) 年老中に就任。同 12年武蔵川越城主,同 15年信濃松本に移り 10万石となった。老中を退いたあとも幕政に参与。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

堀田正盛 ほった-まさもり

1609*-1651 江戸時代前期の大名。
慶長13年12月11日生まれ。堀田正吉の長男。義理の祖母にあたる春日局(かすがのつぼね)の縁で幼少より徳川家光につかえる。寛永12年武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主。のち信濃(しなの)(長野県)松本藩をへて,19年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主堀田家初代。11万石。在任中,六人衆,老中となる。慶安4年4月20日家光に殉死。44歳。通称は三四郎。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

堀田正盛

没年:慶安4.4.20(1651.6.8)
生年:慶長13(1608)
江戸前期の幕府年寄。正吉の長男。徳川家光の乳母春日局は義理の祖母に当たり,その縁で13歳のときから常に家光の側に勤仕する。元和9(1623)年,700石,出羽守に叙任,のち加賀守。寛永2(1625)年,5000石。翌年,小姓組番頭となり,1万石。10年3月六人衆(のちの若年寄)に列し,5月松平信綱と同じく年寄並となる。12年3月武蔵国川越藩,3万5000石。14年病気になり,翌年3月職をゆるされ,信濃国松本藩10万石に転封。これは正盛の健康を心配した家光の配慮だった。19年7月,下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)11万石に転封した。このころ家光は,しばしば正盛の居邸や浅草の別荘を訪れ,また狩りなどの供を命じている。一説には家光の衆道の相手だったといわれ,家光第一の側近として幕政に関与した。慶安4(1651)年4月,家光が死ぬと,居邸に帰り殉死した。室は酒井忠勝の娘。

(山本博文)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ほったまさもり【堀田正盛】

1608‐51(慶長13‐慶安4)
江戸前期の大名,幕府の老中。通称三四郎。出羽守,加賀守。正吉の長子。母が稲葉正成の先妻の女であるところから,徳川家光の乳母春日局の縁者にあたり(春日局は正成の後妻),1620年(元和6)に家光に近侍してより以後めざましい昇進をとげた。知行は23年相模国内700石に始まり,25年(寛永2)同国恩田,常陸国北条の内に5000石,翌26年にはこれに上野国群馬郡内5000石を加えられて万石大名に列した。さらに33年甲斐国内に5000石加増,35年には武蔵国川越城主となり3万5000石,38年には信濃国松本藩10万石,42年には下総国佐倉に移り11万石を領するに至った。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

堀田正盛
ほったまさもり
(1608―1651)

江戸前期の幕府老中、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉(さくら)藩主。通称弥三郎、旗本堀田正吉(まさよし)長子。3代将軍徳川家光(いえみつ)乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の孫にあたる。13歳のときから家光に近侍しその寵愛(ちょうあい)と、春日局の権勢により異例の出世をする。1623年(元和9)相模(さがみ)国大住郡曽屋(そや)村(神奈川県秦野(はだの)市)に700石を与えられ、従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)(のち加賀守)に叙任、28年(寛永5)1万石の大名となる。33年26歳で老中並(なみ)に進み幕政に参与した。この後武蔵(むさし)国川越(かわごえ)藩3万石、信濃(しなの)国松本藩10万石を経て42年11万石佐倉藩主となる。慶安(けいあん)4年4月20日家光の死を追って殉死、44歳。玄性院と号し、上野東叡山(とうえいざん)現龍院に葬した。[神彰利]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の堀田正盛の言及

【川越藩】より

…忠勝は川越氷川社を修復,仙波東照宮を創建,農政にも意を用いたが,34年(寛永11)若狭国小浜に転じた。翌年老中堀田正盛が3万5000石で入封したが,38年の川越大火で喜多院,東照宮も罹災した。正盛は信濃国松本に移された後もその再建に尽くした。…

【佐倉藩】より

…33年(寛永10)利勝の下総古河(こが)への転封後,石川忠総入封(7万石)。35年松平家信(4万石),42年老中堀田正盛が入封(11万石)し,正盛の子正信のとき,いわゆる佐倉惣五郎事件が起こった。これは53年(承応2)のことらしい。…

【堀田氏】より

…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…

※「堀田正盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

堀田正盛の関連キーワード仙石久邦八木守直池田長賢江戸幕府堀田氏林鵝峰十五代(徳川十五代)稲葉正勝土屋数直徳川徳松

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone