堀田正盛 (ほったまさもり)
生没年:1608-51(慶長13-慶安4)
江戸前期の大名,幕府の老中。通称三四郎。出羽守,加賀守。正吉の長子。母が稲葉正成の先妻の女であるところから,徳川家光の乳母春日局の縁者にあたり(春日局は正成の後妻),1620年(元和6)に家光に近侍してより以後めざましい昇進をとげた。知行は23年相模国内700石に始まり,25年(寛永2)同国恩田,常陸国北条の内に5000石,翌26年にはこれに上野国群馬郡内5000石を加えられて万石大名に列した。さらに33年甲斐国内に5000石加増,35年には武蔵国川越城主となり3万5000石,38年には信濃国松本藩10万石,42年には下総国佐倉に移り11万石を領するに至った。この間,1626年小姓組番頭,33年六人衆(のちの若年寄に相当)に任ぜられ,35年老中に昇進した。38年老中退任後も天下の大事,政務の枢要においては評定所に参与すべきことを命じられるなど,将軍家光親裁体制のブレーンとして活躍した。51年家光に殉死した。
執筆者:杣田 善雄
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堀田正盛
没年:慶安4.4.20(1651.6.8)
生年:慶長13(1608)
江戸前期の幕府年寄。正吉の長男。徳川家光の乳母春日局は義理の祖母に当たり,その縁で13歳のときから常に家光の側に勤仕する。元和9(1623)年,700石,出羽守に叙任,のち加賀守。寛永2(1625)年,5000石。翌年,小姓組番頭となり,1万石。10年3月六人衆(のちの若年寄)に列し,5月松平信綱と同じく年寄並となる。12年3月武蔵国川越藩,3万5000石。14年病気になり,翌年3月職をゆるされ,信濃国松本藩10万石に転封。これは正盛の健康を心配した家光の配慮だった。19年7月,下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)11万石に転封した。このころ家光は,しばしば正盛の居邸や浅草の別荘を訪れ,また狩りなどの供を命じている。一説には家光の衆道の相手だったといわれ,家光第一の側近として幕政に関与した。慶安4(1651)年4月,家光が死ぬと,居邸に帰り殉死した。室は酒井忠勝の娘。
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堀田正盛
ほったまさもり
(1608―1651)
江戸前期の幕府老中、下総(しもうさ)国(千葉県)佐倉(さくら)藩主。通称弥三郎、旗本堀田正吉(まさよし)長子。3代将軍徳川家光(いえみつ)乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の孫にあたる。13歳のときから家光に近侍しその寵愛(ちょうあい)と、春日局の権勢により異例の出世をする。1623年(元和9)相模(さがみ)国大住郡曽屋(そや)村(神奈川県秦野(はだの)市)に700石を与えられ、従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)(のち加賀守)に叙任、28年(寛永5)1万石の大名となる。33年26歳で老中並(なみ)に進み幕政に参与した。この後武蔵(むさし)国川越(かわごえ)藩3万石、信濃(しなの)国松本藩10万石を経て42年11万石佐倉藩主となる。慶安(けいあん)4年4月20日家光の死を追って殉死、44歳。玄性院と号し、上野東叡山(とうえいざん)現龍院に葬した。
[神﨑彰利]
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堀田正盛 ほった-まさもり
1609*-1651 江戸時代前期の大名。
慶長13年12月11日生まれ。堀田正吉の長男。義理の祖母にあたる春日局(かすがのつぼね)の縁で幼少より徳川家光につかえる。寛永12年武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主。のち信濃(しなの)(長野県)松本藩をへて,19年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主堀田家初代。11万石。在任中,六人衆,老中となる。慶安4年4月20日家光に殉死。44歳。通称は三四郎。
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堀田正盛
ほったまさもり
1608~51.4.20
江戸前期の老中。加賀守。父正吉は旗本,母は稲葉正成の女。春日局は義理の外祖母。1620年(元和6)から徳川家光に仕え,26年(寛永3)小姓組番頭。33年六人衆となり,同年には年寄並として幕政に参画。35年武蔵国川越藩主となり3万5000石を領した。38年老中退任,信濃国松本10万石に転封となるが,以後も家光政権の中枢に参画。42年下総国佐倉11万石に転封。51年(慶安4)家光に殉死。
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堀田正盛
ほったまさもり
[生]慶長13(1608).12.11. 江戸
[没]慶安4(1651).4.20. 江戸
江戸時代初期の下総佐倉藩主。江戸幕府の老中。正吉の子。通称,三四郎。寛永 10 (1633) 年老中に就任。同 12年武蔵川越城主,同 15年信濃松本に移り 10万石となった。老中を退いたあとも幕政に参与。同 19年佐倉に移封,1万石加増。3代将軍徳川家光の死により殉死。
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堀田正盛 (ほったまさもり)
生年月日:1608年12月11日
江戸時代前期の大名
1651年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の堀田正盛の言及
【川越藩】より
…忠勝は川越氷川社を修復,仙波東照宮を創建,農政にも意を用いたが,34年(寛永11)若狭国小浜に転じた。翌年老中堀田正盛が3万5000石で入封したが,38年の川越大火で喜多院,東照宮も罹災した。正盛は信濃国松本に移された後もその再建に尽くした。…
【佐倉藩】より
…33年(寛永10)利勝の下総古河(こが)への転封後,石川忠総入封(7万石)。35年松平家信(4万石),42年老中堀田正盛が入封(11万石)し,正盛の子正信のとき,いわゆる[佐倉惣五郎]事件が起こった。これは53年(承応2)のことらしい。…
【堀田氏】より
…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総[佐倉藩]万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」