死者を悼む等の理由から,その従者や下位の近親者等が命を絶って殉じる行為。
《古事記》《日本書紀》《風土記》には,殉死の伝承が散見する。その代表的な例を二,三あげてみると,649年(大化5)3月,右大臣蘇我倉山田石川麻呂は異母弟蘇我日向の讒言により,飛鳥の山田寺で自尽するが,その際,彼の妻子ら8人が殉死している。643年(皇極2)11月,山背大兄王は蘇我入鹿に攻められ,子弟妃妾らとともに斑鳩宮で自経する。この場合,子弟妃妾らは山背大兄王に殉じたとみてよい。《播磨国風土記》飾磨郡貽和里の馬墓の池条に,尾治連等の上祖長日子の死に際し,その婢と馬との墓を作ったと伝えるのも殉死と馬の殉殺の例であろう。以上の例や,大化薄葬令にみえる旧俗(人の死に際し,自経したり人を絞殺して殉ぜしめる行為)からみて,特に大化前代においては殉死はかなり一般的であったかと思われる。殉死に関連して,《日本書紀》垂仁紀の記事が注意される。垂仁天皇の28年に倭彦命を葬った際,その陵域に近習の人々を生きながらにして埋めたが,あまりに悲惨であったので,垂仁32年に皇后日葉酢媛が没したときには,人に代えて埴輪(はにわ)を立てたという。この記事は埴輪の起源説話であり,実際に人を生きながらに埋めたとは考えがたい。大型前方後円墳の周囲にある陪冢(ばいちよう)にも,器物をのみ納めた例が検出されているので,殉死者を埋葬しているものと断定できない。
執筆者:和田 萃 武士の社会では,戦場で主君が討死したような場合に従者らが切腹してあとを追い,死後の世界まで随行しようとすることは早くからあり,追腹(おいばら)あるいは供腹(ともばら)とよばれた。しかし主君の病死にまで追腹を切った例は,1392年(元中9・明徳3)管領細川頼之に対する三島外記の場合を記録した《明徳記》に〈前代未聞の振舞〉とあるように,特異なできごととみなされていた。ところが近世に入って戦乱が絶え,主君への忠誠を表明する機会が減ったためもあって,病死した主君に追腹を切る風習が17世紀前半に盛んになり,これが殉死とよばれるようになった。その最初は,1607年(慶長12)尾張の清洲城主松平忠吉(徳川家康の四男)が死んだ際の近臣石川主馬ら3人である。このころから殉死は美風とみなされ,殉死者の墓を主君の墓のそばに立てたり,子孫を優遇するなどの措置が多くの藩でとられた。殉死者の数はしだいに増加し,とくに生前の主君から特別の恩顧をうけた者は,殉死しなければ周囲から不忠者として非難されるほどになった。36年(寛永13)仙台藩主伊達政宗が死んだ際には殉死者が15人,さらにその殉死者のために殉死した者が5人あった。41年に死んだ熊本藩主細川忠利にも18人の殉死者があった。しかし殉死が流行すると,有能な人材が失われるなど弊害も大きくなった。
《明良洪範》は殉死に3種類あるとして,忠義の心から出た義腹(ぎばら)のほかに,体面のためにする論腹(ろんばら)や,子孫の利益になるからという打算的な考えにもとづく商腹(あきないばら)を挙げている。徳川家康に殉死者がなかったのは,家康が殉死に反対の見解を示していたためといわれる。大名の中にも同様の見解を抱く者が多くなり,その一人である保科正之の意見などにもとづいて,幕府は63年(寛文3)4代将軍家綱が武家諸法度を公布した際に,口頭で殉死を禁止する旨を申し渡した。実際に幕府は,その2年後に殉死者を出した宇都宮藩主奥平家を罰して2万石を減封し,殉死者の子を斬罪に処したので,この風習はほぼ絶えた。5代将軍綱吉の代からは武家諸法度の本文に殉死禁止の条項が加えられた。
近代になって,長く絶えていた殉死が再現されて人々を驚かせたのは,1912年9月,明治天皇の大喪の日に陸軍大将乃木希典が,夫人とともに天皇の恩に対する感謝と謝罪の意を述べた遺書を残して自殺したことであった。この殉死は,一部の知識人からは時代錯誤として批判的に見られたが,一般には美談とされ,やがて政府により軍国主義の風潮を鼓吹するために利用されることともなった。さらに重要な影響としては,森鷗外と夏目漱石とがこの事件に強い感銘を受け,鷗外は《興津弥五右衛門の遺書》や《阿部一族》を,また漱石は《心》を書いたことが注目される。それはこの事件が,高い西欧的教養を積んだ二人の文学者の内心に,近代文明と伝統的文化との関係についての深い反省をよび起こしたことを意味している。
執筆者:尾藤 正英
王侯の死に際して臣下がみずからの意志で死ぬという意味での殉死は広く見られる現象ではない。おそらくこうした自殺としての殉死が多少とも制度的に存立しうるとすれば,ごく特殊な歴史的・社会的条件下で孤立した現象として発生したものに限られるであろう。したがって殉死としては,むしろ強制的あるいは半強制的な死,王侯の死に対しては臣下ないし奴隷が,夫の死に対しては妻が死ぬことを強要されるという意味での事例が問題になる。この場合,殉死と人身供犠との境界は往々にして曖昧なものとなる。殉死は言葉の本来の意味での犠牲の一種と考えられる。
犠牲(人身供犠)としての殉死は他界観と密接な関連がある。王その他の権力者が死後もその権力をあの世で保持すると考えられているとき,そのためにはこの世で彼の権力を支えていたさまざまな財貨や従者も他界へと移される必要がある。つまり財貨は墓所に貯えられたり,場合によってはそこで破壊され,従者は死ななければならない。西ボルネオに住むミラナウ族の次の例は示唆的である。かつては首長や高位の貴族が死ぬと,奴隷が彼の死後の世話を見るために殺されていた。しかし他界で十分な働きをするために彼ないし彼女は血を流す暴力的な死に方をしてはならなかった。いかだに乗せて海の彼方に流されるか,主人の墓に建てられた巨大な木柱の上部にしばりつけられて飢死させられるかしたのである。犠牲者はいわば生きたまま死に至らしめられた。古代中国の帝陵で殉死者が生き埋めにされていた形跡があるのも,これと類似の観念にもとづくものと考えられよう。
夫の死を未亡人が追わなければならないというかつてのインドで見られたサティーの習俗は,シバ神とその妻サティー神についての神話に結びついている。サティーは彼女の父によって山中に閉じ込められたシバを救うため,みずからを犠牲にささげた。この行為によって夫婦神はともに救われたという。この神話におけるように,妻はあるいは夫の死体とともに生きたまま焼かれ,あるいは死後しばらくして絞殺・圧殺されることにより,夫の霊魂を救わなければならないのである。ここに見られるのも犠牲としての殉死の観念であるが,上におけるようなこの世の延長としての他界での奉仕に代わって,インド的な輪廻観と贖罪観がその基礎にある。
→殉葬
執筆者:内堀 基光
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主君や夫の死後、後を追って臣下や妻が死ぬこと。妻が夫に殉ずることを英語でサティーsutteeという。これは、イギリス植民地時代に至るまでインドに行われていた、未亡人の焼身自殺の風習の名によっている。妻が亡夫の死体の焼かれる薪(まき)の山に置かれ、いっしょに焼かれる風習である。これには、シバ神の神話が背景にある。南インドの口承の神話によれば、シバ神は、ヒマラヤの山の悪魔の娘サティーと結婚するが、これに怒った彼女の父によって山の中に閉じ込められる。サティーが自殺して、わが身をシバ神に捧(ささ)げたため、シバ神もサティーも救われたという。サティーは、自らを犠牲にするため薪の上に登る前に、装身具を外して周りの者に与えたとされ、妻の焼身の見本となった。そしてここには、妻が夫の後を追って死に、夫の霊魂を救わねばならないとする観念が語られている。この考えは、自らを犠牲にすることによる魂の救済、肉体の消滅による再生というヒンドゥー教の死生観を背景とし、肉体と宇宙の合一、死と性交を結ぶ観念につながっている。インドではまた、王の死とともに、彼の妻妾(さいしょう)や廷臣、衛兵、召使いたちの自殺したことが伝えられている。
[田村克己]
アフリカにも王への殉死の風習が存在し、ナイジェリアのジュクン人の王国では、かつて男女2人の奴隷が扼殺(やくさつ)され、死体が王墓の入口近くに残されたという。男の奴隷の右手には王の槍(やり)が握らされ、その頭の側には馬の端綱と草刈り鎌(かま)が置かれた。これは、死者の国で王の馬の世話をするためといい、女奴隷の頭の側には水甕(みずがめ)が置かれたと伝えられている。また、王の寵愛(ちょうあい)した奴隷が自発的に、あるいは選ばれて殉死し、王妃や従者も王とともに葬られたといわれる。前者は、王=穀霊の観念から、「穀物」の従者とよばれ、死後のその霊魂は、天候不順のときに祭祀(さいし)の対象となった。
南部アフリカのジンバブエの王国でも、王の死にあたって王妃が後を追ったという。そこの別の伝説では、妹との結婚を両親に拒絶され湖の中に入った兄を救うため、両親によって妹が湖に連れてこられ、妻として与えられたという。湖の下にくるようにとの兄の要求に従い、妹は、着物や装身具をとり、湖の中に歩んで行くと、兄が水中から現れ、兄妹は村に帰って結婚し、彼は最初の王になったという。同様の伝承は古代バビロニアにもあるが、これら一連の伝承や習俗は、王侯文化的な一連の文化複合に属するとされる。ことに王の身体を宇宙と同一視することから、王の高齢・病弱・禁忌違反や災厄などの理由で、王の儀礼的殺害を行う習俗と結び付いている。
[田村克己]
南アメリカのインカ帝国では、有力者の死にあたって側妻や従僕が犠牲になったといわれ、北アメリカのナチェス人の社会でも、かつて高貴な首長の葬儀において、来世で首長に仕える料理人や従者、また子供たちが殺された。これらは来世における死者の安寧のためであり、死後の世界を現世と同じように描くことからきており、階層化された社会を背景にしている。
[田村克己]
こうした殉死が歴史を通じて盛んに行われたのは中国である。紀元前7世紀に秦(しん)の武公の死に従った者のあったことが『史記』に伝えられており、以後、ときに禁令が出されたにもかかわらず、清(しん)朝初期に至るまで、皇帝や王、王族の死にあたって、装飾品、日用品、車馬などとともに、多くの妻妾や従者、奴隷が犠牲にされた。生きた人にかわって、陶製などの人像(俑(よう))を葬る風習も、殉死と同じく、春秋時代にはすでに行われていた。日本においても『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に卑弥呼(ひみこ)の死にあたって奴婢100余人の殉葬されたことが記され、『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇32年条に、殉死廃止の命令が出され、野見宿禰(のみのすくね)の建議によって、人のかわりに土製の人馬を墓に埋めることにしたという埴輪(はにわ)の起源伝説が語られている。
また、中国では妻が夫の死に対し殉ずることも広くみられた。これには、女性が親や夫、あるいは夫の両親、一族の財産であり、献身的に従うことの要求される道徳や、貞節を重んじる観念から再婚を防ぐ考えを背景としていた。それゆえ、儒教道徳を治政の基本とする公的権力から、こうした行為は認知され、ときにその行為を顕彰する文が墓石に刻まれたり、記念の門がつくられた。あるいは彼女たちを祀(まつ)る祠(ほこら)(節孝祠(せつこうし))が設けられ、礼拝の対象ともなった。そして未亡人が官吏や公衆の見守るなかで自殺することも、けっしてまれではなかった。このように殉ずる女性は既婚に限られず、未婚の女性も婚約者の死の後を追う例があり、また彼女が亡くなった婚約者と婚姻の儀式を取り結び、実際上独身のまま婚家で永久に過ごす風習もあった。未亡人などが墓地に住む風習、亡夫と同じ墓や棺に葬られるのも、殉死に共通する考えが背景にある。
妻の亡夫への殉死は、ほかに古代のゲルマンやケルトの間にみられ、太平洋のフィジーにも例がある。フィジーでは、父の死にあたって子供が指を切る風習があり、インド洋のニコバル諸島でも未亡人が指を切り落としたという。これらは、全体にかえて一部を犠牲とする考え方によっている。
[田村克己]
わが国では主として死んだ主君の後を追って自殺する家臣の行為をいうが、主君の死ぬ前に自殺する場合もある。前者を「追腹(おいばら)」、後者を「先腹(さきばら)」という。この風習は、主として戦国時代から江戸初期にかけてみられたが、江戸幕府は1663年(寛文3)これを厳禁した。そのため、表向きはこれ以後なくなったが、1912年(大正1)明治天皇の後を慕って自殺した乃木(のぎ)将軍夫妻の場合も、武家の殉死事件の余韻とみてよい。そのように天皇が対象となった場合も、垂仁(すいにん)天皇が「其(そ)れ古(いにしえ)の風と雖(いえど)も良からずば何ぞ従わむ」と禁止したように、古代からあった。しかし、原始社会における、夫の死に殉ずる妻の自殺という風習はわが国にはなかった。
この意味での殉死は、フィジー人や中央アフリカのバイロ人の間にあったことが報告されており、150年ばかり前までインドにあったサティーもこれにほかならなかった。サティーは、生きながら夫の死体とともに火葬になる風習であるが、この風習に従う妻は、次の世でも夫と連れ添うほか種々の特権に恵まれるとされたが、わが武家時代の殉死にはその特権は認められていない。江戸時代には殉死に義腹(ぎばら)、論腹、商(あきない)腹の3種類があるとする説があり、商腹はまさに種々の特権を目当てに殉死する場合であるが、殉死者の子孫がとくに優遇された事実はあまりない。しかし、各藩で殉死者の数を競うような弊害があったので幕府は厳禁したのであり、儒者も「孟子(もうし)のいえる不義の義」として非難した例が多かった。
[古川哲史]
『大林太良著『葬制の起源』(中公文庫)』
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主君などの死に際し,その家臣や妻子らが死者の後を追って自殺すること。多くは切腹するので追腹(おいばら)とよぶ。鎌倉時代以降,敗北に際して家臣たちが集団自殺することが行われた。しかし日本の殉死の特徴は,病気などで死んだ主君の後を追って自殺する風習が流行することである。その初見は「明徳記」にみえる三島外記入道の事例だが,江戸初期にはそれが美風とされ流行し,1657年(明暦3)に死んだ鍋島勝茂には26人もの殉死者があった。主君の小姓らのほか比較的下層の者が,強制によるよりもむしろ進んで死んでいることが多い。これを重くみた幕府は,63年(寛文3)厳罰をもって殉死を禁止し,その風習はほぼ絶えた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…慶安御触書はその表れである。大名に対しても,それまでの威圧的な方針を緩め,末期(まつご)養子の禁の緩和,殉死の禁および証人制の廃止などを行った。 17世紀末ころから,商品経済の発展にともなって農村内に新たな階層分化が起こり,地主・小作関係が成立するとともに,幕府や大名の財政も行きづまり,元禄時代以来の貨幣の改鋳,家臣からの借上(かりあげ),御用金の徴集などがしばしば行われたが,享保改革,寛政改革,天保改革の断行によって,倹約の強制,綱紀粛正,年貢増徴,農村の再整備,百姓統制の強化と同時に,江戸・大坂の大商人の力をおさえ物価の調節をはかった。…
…いわゆる〈拝〉は,立ったままする〈揖(ゆう)〉と異なり,基本的に頭・手・足をともに用いる跪拝のことで,〈頓首〉〈叩頭〉は,ひざまずいて両手を胸の前で重ねあわせ,頭額を急激に地面に叩きつけて行った。〈頓首〉は,古くは〈稽顙(けいそう)〉と呼ばれて凶拝であったことから,頭額を物に激突させて自殺するという中国特有の習俗を背景に生まれ,本来殉死の形態から喪礼に用いられる拝法として定着してきたものとみられる。また〈叩頭〉という語は,〈再拝頓首〉などに同じく,請罪の意を表すことばとしても用いられ,宋代ころから〈磕頭(こうとう)〉とも称されるようになった。…
…第3王朝初代のジェセル王の〈階段式ピラミッド〉では,王の石棺を安置した中央の大きな竪坑のほかに11の小竪坑があり,ここで殉葬者がアラバスター(雪花石)製の石棺に葬られていた。第4王朝のクフ王を葬る最大のピラミッドは,東に王妃を葬った小ピラミッドが3基並び,高官を葬った多数のマスタバが南と西に配列されているが,彼らの死が殉死であるか否かを決めることはむずかしい。メソポタミアではウルの王墓の殉葬が有名で,墓室内が荒らされていた789号墓では墓壙内から武装兵士6,男24,女33,合計63体が出土した。…
…腹を切るのは苦痛も多く,致死も困難であるが,自分の真心を人に示すという観念,および戦場や人の面前で自殺するのにはもっとも目につきやすく,勇壮であるというところから,この部位が選ばれたのであろう。敗軍の将兵が捕らえられることをまぬかれるために行うことが多いが,主君への殉死のためにする追腹(おいばら),職務上の責任,世間の義理から人に迫られてやむなく行う詰腹(つめばら)などもあった。 刑罰としては中世末から行われたが,江戸時代に幕府・藩が採用し,武士のうち侍と呼ばれた上級武士に対する特別の死刑となった。…
※「殉死」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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