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殉死 じゅんし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

殉死
じゅんし

追腹 (おいばら) 。臣下や近親者が主君の死をいたみ命を絶つこと。この行為は古くから世界的に存し,方法としては縊死,生埋め,割腹 (かっぷく) その他があった。日本でも古くから存し,『日本書紀』によれば,垂仁天皇のとき,これを禁じたとあるが,大化改新の際にもこれを禁じていることをみると,この風習はそれ以前もそれ以降も依然としてあったらしい。

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デジタル大辞泉の解説

じゅん‐し【殉死】

[名](スル)主君が死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること。

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百科事典マイペディアの解説

殉死【じゅんし】

王や主君の死に際し,家臣,従者等があとを追って自発的ないし強制的に死ぬこと。古代エジプトメソポタミア,中国などで行われたが,特に日本の武家社会で,主従一体観に基づいて行われた自発的なものをいう。
→関連項目サティー

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デジタル大辞泉プラスの解説

殉死

司馬遼太郎の長編小説。1967年刊行。明治の軍人、乃木希典主人公に据えた近代歴史小説

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世界大百科事典 第2版の解説

じゅんし【殉死】

死者を悼む等の理由から,その従者や下位の近親者等が命を絶って殉じる行為。
[日本]
 《古事記》《日本書紀》《風土記》には,殉死の伝承が散見する。その代表的な例を二,三あげてみると,649年(大化5)3月,右大臣蘇我倉山田石川麻呂は異母弟蘇我日向の讒言により,飛鳥の山田寺で自尽するが,その際,彼の妻子ら8人が殉死している。643年(皇極2)11月,山背大兄王蘇我入鹿に攻められ,子弟妃妾らとともに斑鳩宮で自経する。

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大辞林 第三版の解説

じゅんし【殉死】

( 名 ) スル
死んだ主君のあとを追い、臣下が自殺すること。また、王や夫の死の後、下臣や妻に強制される供儀としての死をいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

殉死
じゅんし

主君や夫の死後、後を追って臣下や妻が死ぬこと。妻が夫に殉ずることを英語でサティーsutteeという。これは、イギリス植民地時代に至るまでインドに行われていた、未亡人焼身自殺の風習の名によっている。妻が亡夫の死体の焼かれる薪(まき)の山に置かれ、いっしょに焼かれる風習である。これには、シバ神の神話が背景にある。南インドの口承の神話によれば、シバ神は、ヒマラヤの山の悪魔の娘サティーと結婚するが、これに怒った彼女の父によって山の中に閉じ込められる。サティーが自殺して、わが身をシバ神に捧(ささ)げたため、シバ神もサティーも救われたという。サティーは、自らを犠牲にするため薪の上に登る前に、装身具を外して周りの者に与えたとされ、妻の焼身の見本となった。そしてここには、妻が夫の後を追って死に、夫の霊魂を救わねばならないとする観念が語られている。この考えは、自らを犠牲にすることによる魂の救済、肉体の消滅による再生というヒンドゥー教の死生観を背景とし、肉体と宇宙の合一、死と性交を結ぶ観念につながっている。インドではまた、王の死とともに、彼の妻妾(さいしょう)や廷臣、衛兵、召使いたちの自殺したことが伝えられている。[田村克己]

アフリカ

アフリカにも王への殉死の風習が存在し、ナイジェリアのジュクン人の王国では、かつて男女2人の奴隷が扼殺(やくさつ)され、死体が王墓の入口近くに残されたという。男の奴隷の右手には王の槍(やり)が握らされ、その頭の側には馬の端綱と草刈り鎌(かま)が置かれた。これは、死者の国で王の馬の世話をするためといい、女奴隷の頭の側には水甕(みずがめ)が置かれたと伝えられている。また、王の寵愛(ちょうあい)した奴隷が自発的に、あるいは選ばれて殉死し、王妃や従者も王とともに葬られたといわれる。前者は、王=穀霊の観念から、「穀物」の従者とよばれ、死後のその霊魂は、天候不順のときに祭祀(さいし)の対象となった。
 南部アフリカのジンバブエの王国でも、王の死にあたって王妃が後を追ったという。そこの別の伝説では、妹との結婚を両親に拒絶され湖の中に入った兄を救うため、両親によって妹が湖に連れてこられ、妻として与えられたという。湖の下にくるようにとの兄の要求に従い、妹は、着物や装身具をとり、湖の中に歩んで行くと、兄が水中から現れ、兄妹は村に帰って結婚し、彼は最初の王になったという。同様の伝承は古代バビロニアにもあるが、これら一連の伝承や習俗は、王侯文化的な一連の文化複合に属するとされる。ことに王の身体を宇宙と同一視することから、王の高齢・病弱・禁忌違反や災厄などの理由で、王の儀礼的殺害を行う習俗と結び付いている。[田村克己]

インカ

南アメリカのインカ帝国では、有力者の死にあたって側妻や従僕が犠牲になったといわれ、北アメリカのナチェス人の社会でも、かつて高貴な首長の葬儀において、来世で首長に仕える料理人や従者、また子供たちが殺された。これらは来世における死者の安寧のためであり、死後の世界を現世と同じように描くことからきており、階層化された社会を背景にしている。[田村克己]

中国

こうした殉死が歴史を通じて盛んに行われたのは中国である。紀元前7世紀に秦(しん)の武公の死に従った者のあったことが『史記』に伝えられており、以後、ときに禁令が出されたにもかかわらず、清(しん)朝初期に至るまで、皇帝や王、王族の死にあたって、装飾品、日用品、車馬などとともに、多くの妻妾や従者、奴隷が犠牲にされた。生きた人にかわって、陶製などの人像(俑(よう))を葬る風習も、殉死と同じく、春秋時代にはすでに行われていた。日本においても『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に卑弥呼(ひみこ)の死にあたって奴婢100余人の殉葬されたことが記され、『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇32年条に、殉死廃止の命令が出され、野見宿禰(のみのすくね)の建議によって、人のかわりに土製の人馬を墓に埋めることにしたという埴輪(はにわ)の起源伝説が語られている。
 また、中国では妻が夫の死に対し殉ずることも広くみられた。これには、女性が親や夫、あるいは夫の両親、一族の財産であり、献身的に従うことの要求される道徳や、貞節を重んじる観念から再婚を防ぐ考えを背景としていた。それゆえ、儒教道徳を治政の基本とする公的権力から、こうした行為は認知され、ときにその行為を顕彰する文が墓石に刻まれたり、記念の門がつくられた。あるいは彼女たちを祀(まつ)る祠(ほこら)(節孝祠(せつこうし))が設けられ、礼拝の対象ともなった。そして未亡人が官吏や公衆の見守るなかで自殺することも、けっしてまれではなかった。このように殉ずる女性は既婚に限られず、未婚の女性も婚約者の死の後を追う例があり、また彼女が亡くなった婚約者と婚姻の儀式を取り結び、実際上独身のまま婚家で永久に過ごす風習もあった。未亡人などが墓地に住む風習、亡夫と同じ墓や棺に葬られるのも、殉死に共通する考えが背景にある。
 妻の亡夫への殉死は、ほかに古代のゲルマンやケルトの間にみられ、太平洋のフィジーにも例がある。フィジーでは、父の死にあたって子供が指を切る風習があり、インド洋のニコバル諸島でも未亡人が指を切り落としたという。これらは、全体にかえて一部を犠牲とする考え方によっている。[田村克己]

日本

わが国では主として死んだ主君の後を追って自殺する家臣の行為をいうが、主君の死ぬ前に自殺する場合もある。前者を「追腹(おいばら)」、後者を「先腹(さきばら)」という。この風習は、主として戦国時代から江戸初期にかけてみられたが、江戸幕府は1663年(寛文3)これを厳禁した。そのため、表向きはこれ以後なくなったが、1912年(大正1)明治天皇の後を慕って自殺した乃木(のぎ)将軍夫妻の場合も、武家の殉死事件の余韻とみてよい。そのように天皇が対象となった場合も、垂仁(すいにん)天皇が「其(そ)れ古(いにしえ)の風と雖(いえど)も良からずば何ぞ従わむ」と禁止したように、古代からあった。しかし、原始社会における、夫の死に殉ずる妻の自殺という風習はわが国にはなかった。
 この意味での殉死は、フィジー人や中央アフリカのバイロ人の間にあったことが報告されており、150年ばかり前までインドにあったサティーもこれにほかならなかった。サティーは、生きながら夫の死体とともに火葬になる風習であるが、この風習に従う妻は、次の世でも夫と連れ添うほか種々の特権に恵まれるとされたが、わが武家時代の殉死にはその特権は認められていない。江戸時代には殉死に義腹(ぎばら)、論腹、商(あきない)腹の3種類があるとする説があり、商腹はまさに種々の特権を目当てに殉死する場合であるが、殉死者の子孫がとくに優遇された事実はあまりない。しかし、各藩で殉死者の数を競うような弊害があったので幕府は厳禁したのであり、儒者も「孟子(もうし)のいえる不義の義」として非難した例が多かった。[古川哲史]
『大林太良著『葬制の起源』(中公文庫)』

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世界大百科事典内の殉死の言及

【江戸時代】より

…慶安御触書はその表れである。大名に対しても,それまでの威圧的な方針を緩め,末期(まつご)養子の禁の緩和,殉死の禁および証人制の廃止などを行った。 17世紀末ころから,商品経済の発展にともなって農村内に新たな階層分化が起こり,地主・小作関係が成立するとともに,幕府や大名の財政も行きづまり,元禄時代以来の貨幣の改鋳,家臣からの借上(かりあげ),御用金の徴集などがしばしば行われたが,享保改革寛政改革天保改革の断行によって,倹約の強制,綱紀粛正,年貢増徴,農村の再整備,百姓統制の強化と同時に,江戸・大坂の大商人の力をおさえ物価の調節をはかった。…

【叩頭】より

…いわゆる〈拝〉は,立ったままする〈揖(ゆう)〉と異なり,基本的に頭・手・足をともに用いる跪拝のことで,〈頓首〉〈叩頭〉は,ひざまずいて両手を胸の前で重ねあわせ,頭額を急激に地面に叩きつけて行った。〈頓首〉は,古くは〈稽顙(けいそう)〉と呼ばれて凶拝であったことから,頭額を物に激突させて自殺するという中国特有の習俗を背景に生まれ,本来殉死の形態から喪礼に用いられる拝法として定着してきたものとみられる。また〈叩頭〉という語は,〈再拝頓首〉などに同じく,請罪の意を表すことばとしても用いられ,宋代ころから〈磕頭(こうとう)〉とも称されるようになった。…

【殉葬】より

…第3王朝初代のジェセル王の〈階段式ピラミッド〉では,王の石棺を安置した中央の大きな竪坑のほかに11の小竪坑があり,ここで殉葬者がアラバスター(雪花石)製の石棺に葬られていた。第4王朝のクフ王を葬る最大のピラミッドは,東に王妃を葬った小ピラミッドが3基並び,高官を葬った多数のマスタバが南と西に配列されているが,彼らの死が殉死であるか否かを決めることはむずかしい。メソポタミアではウルの王墓の殉葬が有名で,墓室内が荒らされていた789号墓では墓壙内から武装兵士6,男24,女33,合計63体が出土した。…

【切腹】より

…腹を切るのは苦痛も多く,致死も困難であるが,自分の真心を人に示すという観念,および戦場や人の面前で自殺するのにはもっとも目につきやすく,勇壮であるというところから,この部位が選ばれたのであろう。敗軍の将兵が捕らえられることをまぬかれるために行うことが多いが,主君への殉死のためにする追腹(おいばら),職務上の責任,世間の義理から人に迫られてやむなく行う詰腹(つめばら)などもあった。 刑罰としては中世末から行われたが,江戸時代に幕府・藩が採用し,武士のうち侍と呼ばれた上級武士に対する特別の死刑となった。…

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