金銅仏
こんどうぶつ
銅製鋳物(いもの)に金めっき(純金を水銀で溶かして塗る鍍金(ときん))を施した仏像。仏身が黄金造りであったとの信仰から、インド、中国をはじめわが国を含む仏教世界で広く製作されたが、遺品では金色の剥落(はくらく)したものも多い。
[佐藤昭夫]
古くから銅鋳物の像がつくられ、紀元前2000年ごろ栄えたモヘンジョ・ダーロ遺跡からは、多数の動物像や女性裸像が出土している。したがって、仏教の布教に伴い多くの鋳銅仏もつくられたとみられるが、そのほとんどが出土品なので鍍金の有無は明らかでない。しかし、11世紀に入って、イスラム教徒がかつての仏教の中心地マトゥラの寺院を略奪したとき多数の金銀像を得たとの記録もあり、金銅仏もかなりあったと想像される。インドにおける代表的なものに、5世紀ごろの仏立像(バーミンガム博物館)があるが、下って8~11世紀のパーラ時代のものとして、青銅や真鍮(しんちゅう)の奉献用の小像が残っている。なお青銅像はスリランカやビルマ(ミャンマー)にも多少みられるが、12世紀以降のタイに民族的な特色を加味した金銅仏が多く見受けられる。
[佐藤昭夫]
古くから青銅器の伝統をもち、多くの禽獣(きんじゅう)像などがつくられていたが、仏教の伝来により仏像がつくられ、また鍍金の技術も早くから発達していたので、4世紀ごろの小像はすべて金銅仏(中国では鎏金(りゅうきん)像ともいう)であった。これらは磨崖仏(まがいぶつ)(摩崖仏)や独立した石仏と異なり、個人の念持仏としてつくられたものであろうが、5世紀なかばには13メートルにも達する金銅の釈迦(しゃか)立像がつくられた記録があり、寺院でも大金銅仏を安置する傾向のあったことがうかがわれる。5世紀後半になると、それまでの素朴なものに比し、像はもとより光背(こうはい)、台座に至るまで細緻(さいち)を極め、裏面にも浮彫り像を施すなど装飾的な傾向を強めた。そして6世紀初頭には北魏(ほくぎ)の造仏隆盛期を迎え、都市木造寺院の乱立と相まって金銅仏造像も最盛期に達し、大きな像も多数つくられた。その一頂点を示すのが正光5年(524)銘の弥勒(みろく)仏立像一具(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)である。さらに6世紀末、隋(ずい)代に入ると、金銅仏はより精巧さを加え、工芸技法の粋を示すものとなるが、開皇13年(593)銘の青銅阿弥陀(あみだ)像一具(ボストン美術館)はその代表例といえる。唐(とう)代は仏教彫刻の黄金期とされ、石窟(せっくつ)像に比べ優美で写実的な金銅仏が数多くみられるが、銘記されたものはほとんどなく、その発展の軌跡をたどるのは困難である。11世紀も宋(そう)代に入ると、金銅仏はしだいに衰退して鉄像が多くなり、また塑像、木像に特色が発揮されるようになる。
[佐藤昭夫]
仏教の伝来は三国時代であり、高句麗(こうくり)と百済(くだら)には4世紀後半、新羅(しらぎ)には6世紀前半ごろとされている。いずれの国も中国六朝(りくちょう)時代の影響下にあり、この時代の傑出したものとして2体の半跏思惟菩薩(はんかしいぼさつ)像(ソウル、国立中央博物館)がある。7世紀なかばに新羅が半島を統一すると、唐風のふくよかで写実的な像が多くつくられ、慶州仏国寺の2体の如来坐像(にょらいざぞう)はその代表例である。
[佐藤昭夫]
わが国では、606年(推古天皇14)に本邦初の本格的寺院飛鳥(あすか)寺が創建され、止利(とり)仏師の手になる丈六の金銅仏が安置されたのに始まる。以来7~8世紀にかけて質・量ともに全盛期を迎え、ついには高さ16メートルにも及ぶ東大寺の盧遮那仏(るしゃなぶつ)(奈良の大仏)が鋳造されるに至った。しかし9世紀に入ると木彫の波に押されてしだいに衰退し、ふたたび日の目をみるのは13世紀に入ってからである。南都焼討ちに遭遇した大仏の復興、鎌倉大仏の制作、あるいは善光寺式三尊像などが流行した鎌倉時代であるが、これもかつてのような主流を占めるに至らず、鎌倉彫刻の傍流にすぎなかった。室町時代以降は仏像彫刻全体の質的低下とともに、金銅仏にもみるべきものがない。
[佐藤昭夫]
地金は現在のブロンズ(青銅)に近く、約90%の銅と錫(すず)、微量の鉛や亜鉛などの合金が多い。鋳造法は原型の材質により、二つに大別される。一つは蝋型(ろうがた)鋳物で、まず中子(なかご)、つまりつくられるべき像の体内の中空部に相当するものを土でつくり、その上に銅の厚みだけ蜜蝋(みつろう)を盛って原型をつくる。次にその外側に土をかぶせて固めて外型とし、乾燥させてから炭火で焼いて蝋を溶かし出し、その空間に溶銅を流し込んでつくる。体内に中空部のない「むく」像の場合は全体を蝋でつくるが、蝋、銅ともに大量に必要とし、重量的にもかさむので、もっぱら小像に用いられた。また中子を用いる場合も種々くふうを凝らし、蝋を出したあと中子が一方に寄ると一定のすきまが保てないので、中子を固定するため金属片を埋め込むとか、笄(こうがい)とよぶ金属の棒状のものを外型と中子に刺し通すなどの方法がとられた。飛鳥・奈良時代の金銅仏のほとんどはこの蝋型鋳物でつくられ、仕上がりが特有のやわらかさをもって美しいが、現在では行われていない。
いま一つの方法は、木や土で仏像の原型をつくり、これから粘土を含んだ砂で型をとって外型をつくる。さらにもう一度これに土を埋めて原型と同形のものをつくったうえで、その表面を銅厚の分だけ削り取って中子とする。中子の上に外型をかぶせ、動かぬよう工作したうえで炭火で焼きしめ、外型と中子のすきまに溶銅を流し込む方法である。
このようにしてつくられた像の鋳損じ部分に銅を埋めたり、表面を鏨(たがね)できれいに削ったり、磨いたあと水銀鍍金(アマルガムめっき)を施して完成するが、髪、眉(まゆ)、瞳(ひとみ)、唇、衣などに彩色を施すことも多い。
[佐藤昭夫]
『奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』(1979・同朋舎)』▽『松原三郎著『韓国金銅仏研究 古代朝鮮金銅仏の系譜』(1985・吉川弘文館)』
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金銅仏 (こんどうぶつ)
鋳銅の仏像の表面に鍍金(ときん)をして金色に仕上げたもの。《法華経》方便品や《大乗造像功徳経》などの経典には,造像素材の金属として,金,銀,銅,鍮石(ちゆうじやく),白蠟,鉛,錫,鉄などがあげられており,銀仏,鉄仏なども現存しているが,各種の金属製仏像の中で金銅仏が最も広く作られ,製法としては押出仏などの一部を除いてほとんどが鋳造像である。
歴史
金銅仏の製作は仏像造顕の最初期から行われており,北インド,ガンダーラの遺品として,2世紀中ごろ製作のカニシカ王舎利容器の上にあらわされた金銅三尊仏がある。しかし,この時期のインドの造仏は石像が中心で,金銅仏はそれほど多く作られてはいない。4~6世紀のグプタ朝以後,銅を中心として金属像の製作が盛んであったが,金銅仏の遺品はまれである。中央アジアではホータンから出土した3世紀の製作と考えられる金銅仏頭がある。仏教の東漸にしたがって,中国では4世紀初頭ころからの仏像遺品が知られ,後趙建武4年(338)銘の金銅仏が現存する。中国は殷代以来すぐれた青銅器文化を誇り,すでに漢代には銅製鍍金の工芸品が多く作られていたので,仏像製作の初期から当然多くの金銅仏が作られたと思われる。以後,五胡十六国,南北朝,隋,唐と,金銅仏は石仏,塑像とともに造仏の一主流となり,その遺品も多く現存している。《魏書釈老志》によれば北魏時代の467年には43尺(12.9m)の大金銅仏が作られたという。朝鮮に仏教が伝わったのは4世紀にさかのぼるが,現存最古の紀年銘のある仏像は金銅仏であり,高句麗己未年(539)銘の如来形立像が知られる。三国時代には北魏末から北斉,隋の様式をもつ仏三尊像,弥勒半跏像,誕生仏などが作られ,統一新羅時代には仏国寺の盧舎那仏などの大像のほか,小金銅仏の遺品がいたって多い。
日本に百済から仏教が公伝したのは538年であるが,《日本書紀》によれば仏教初伝時に〈釈迦仏金銅像一軀〉がもたらされている。日本最初の本格的造仏で609年(推古17)完成と推定される飛鳥寺金銅丈六釈迦像,623年製作の法隆寺金堂釈迦三尊像(鞍作止利(くらつくりのとり)の作)以下,7世紀末から8世紀初めの薬師寺薬師三尊像,752年(天平勝宝4)開眼の東大寺大仏まで,飛鳥,白鳳,天平期の造仏は金銅仏を中心として展開し,この期が日本の金銅仏製作の最盛期である。この時代にはこれら国家的規模の大像の造立以外に像高30cm前後の小像も多く作られ,これを特に小金銅仏という。主な遺品に法隆寺献納宝物中の《四十八体仏》がある。平安時代になると造仏素材の主流が木彫像にかわり,金銅仏の製作は減少した。平安時代後期11世紀ころから,素材の特質である恒久性を生かした経塚埋納仏,多く山頂に安置される蔵王権現像,白山本地仏などが作られたが,造像の主流にはならず,その時代の木彫様式に準じる作風を示している。鎌倉時代以後は金銅製の善光寺式阿弥陀三尊の造像が流行し,高徳院阿弥陀如来像(鎌倉大仏)など金銅仏の造像もやや増したが,彫刻の主流はあくまでも木彫像であり,その後もこの状況は変わらない。
造像技法
中国,朝鮮,およびそれをうけた飛鳥,白鳳,奈良時代の金銅仏は,ほとんどが蠟型による鋳造法で製作されたと考えられている。まず土を芯として(これが中型(なかご)となる)その上にミツバチの巣からとった蠟を主原料とした蜜蠟を貼りつけ,この蜜蠟部分に像を刻出して原型を作る。この原型を土で緊密に覆い周囲から加熱すると,覆土は乾燥して外型(そとがた)となる。同時に溶けた蜜蠟を外部に流し出すと,内部の土(中型)と外型の間の蜜蠟層であったところが空洞となる。ここに少量の錫,鉛などをまじえた溶銅を流し込み冷却後外型を除去すると,蜜蠟の原型と同形の鋳銅像ができる。このとき外型の内部で中型が動いて間の空洞が不均一になるのを防ぐために,両者を貫く鉄心を立てたり,金属製の釘を外型から中型に打ち込んだり,また蜜蠟部の要所を切り取りその厚みに相当する金属や土の小片を埋め込んだりする。この釘を笄(こうがい),小片を型持(かたもち)といい,完成像にその痕が残っているものもある。こうしてできた鋳銅像は型持などの孔に嵌金(かんきん)をして,表面を磨き,鏨(たがね)で細部を刻んでからアマルガム鍍金(金と水銀の液状の化合物を塗り,これを熱して水銀を蒸発させて金を付着させる)をし,さらに頭髪,眉目などを彩色墨描して完成される。なお,小像では芯となる土型を用いずに,原型の全部を蜜蠟で作る場合があり,そうしてできた像は内部まで銅のつまったいわゆる無垢(むく)の像となる。蠟型鋳造は,外型を原型からはずさずに複雑な形態の原型を一度に鋳造できることが最大の特徴である。前述の薬師寺像は中尊の像高が254.7cmであるが,これも蠟型による一鋳で作られている。ただし東大寺大仏は原型を土で作り,その外側に土製の外型を作ってこれを原型から一度はずし,次に原型を銅の厚み分だけ削って中型とし,この中型と外型の間に溶銅を流したと推定されている。その際,大像であるため像の下部から8回に分けて鋳継いでいったことが知られる。平安時代後期以後,木型や土型の原型を用いて,腕などの部分を分鋳して作られたと思われる金銅仏が増すが,この蠟型から木,土型原型による技法への移行の様子はまだよく解明されていない。
金銅仏は材質が堅牢であり,また鍍金されることにより黄金仏の代用として十分な効果が得られることに特質がある。そのために製作が他の素材に比べて困難であるにもかかわらず,礼拝像としての仏像を表現するには最もふさわしい素材と考えられたであろう。飛鳥,白鳳,奈良時代の造仏の主流となった一因もこうしたことに求められる。この時代の金銅仏は素材がもつ緻密で均一な材質感に,蠟型鋳造による面の柔らかさ,鋳造後の鏨による鋭い細部の刻出,鍍金の効果が加わり,他の素材による彫刻には見られない独自の表現を完成している。
執筆者:副島 弘道
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金銅仏【こんどうぶつ】
銅製鍍金(ときん)の仏像。鋳造のものと押出仏とがある。前者では高さ数cmという小像から奈良時代の東大寺大仏のような10mに及ぶ巨像も造られた。多くは蝋(ろう)型による鋳造。中国,西域には4世紀ごろからの遺品があり,日本では飛鳥(あすか)・奈良時代に盛んに造られた。法隆寺金堂釈迦三尊像,薬師寺金堂三尊像などがその代表的名作であり,旧法隆寺伝来の《四十八体仏》はいずれも小金銅仏で,名作が多い。
→関連項目鋳金|白鳳文化
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金銅仏
こんどうぶつ
銅造で鍍金を施した仏像。蝋型鋳造・合わせ型鋳造などがある。小型の像は小金銅仏という。7~8世紀は金銅仏の全盛期であり,法隆寺金堂釈迦三尊像や薬師寺金堂薬師三尊像のような大作のみならず,中国南北朝・隋唐時代や朝鮮三国時代の仏像様式を多面的に受容した小金銅仏の遺例も多い。旺盛な造像意欲と技術の高度化は8世紀半ばの東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)像で頂点に達するが,それ以降の造像はおもに乾漆像や塑像(そぞう),平安時代以降は木彫像となり,金銅仏は衰退。平安後期には,念持仏や経塚への納入など特殊な用途とかかわる像が,また鎌倉時代には善光寺式三尊像が多く造られたが,時代が降るに従い工法の合理化や量産化が進む一方で,造形的には希薄なものとなっていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
金銅仏
こんどうぶつ
銅製の仏像彫刻に鍍金を施したもの。飛鳥・奈良時代の造像は金銅仏が主流を占め,東大寺大仏のような巨像,法隆寺金堂の『釈迦三尊像』や『四十八体仏』のような小像も制作された。平安時代には木彫が主となり,鎌倉時代には再び金銅仏が盛行した。鋳造法は時代により変化し,平安時代までは大陸から輸入のろう型法 (→脱ろう鋳造法 ) によるものが多く,鎌倉時代以降は木型や粘土の原型を使った金銅仏が多い。
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世界大百科事典(旧版)内の金銅仏の言及
【高麗美術】より
…たとえば,韓国国立中央博物館蔵の旧景福宮所在の半丈六の鉄造釈迦如来座像と元京畿道広州郡東部面下司倉里所在の丈六鉄造釈迦如来座像には,新羅の古典美を意識した造形感覚が認められる。金銅仏にはモニュメンタルな作例がなく,ソウル澗松美術館の金銅三尊仏龕,霊塔寺の金銅三尊仏座像,長谷寺の金銅薬師如来座像,禅雲寺の金銅地蔵菩薩座像などが注目され,また,天暦3年(1330)銘の納入品をもつ日本の長崎県豊玉町観音寺の銅造観音菩薩座像や,至順2年(1331)銘の納入品をもつ韓国国立中央博物館の銅造観音菩薩立像など制作時期が明確なものもあるが,いずれも高麗時代末期の作品である。石仏は,法住寺の如来形倚像,安東泥川洞の阿弥陀如来像,大興寺北弥勒庵の如来形座像,北漢山旧基里の如来形座像などの磨崖仏,あるいは開泰寺址の如来三尊像,万福寺址の如来形立像,灌燭寺の菩薩形立像などの丸彫像などがあるが,いずれも様式的に類型的表現となっている。…
【新羅】より
…いずれも白味の強い良質な花コウ岩を用材として,やわらかい造形感覚を示し,中国,隋代や唐代初期の仏教彫刻の影響をうけたものと考えられる。 金銅造彫刻は,小金銅仏が圧倒的に多く,国立中央博物館の薬師如来立像やソウル三陽洞発見の観音菩薩立像,慶尚北道善山発見の観音菩薩立像などが6世紀後期の制作として注目される。また,7世紀初期から中期にかけて造立されたと考えられている半跏思惟像は,三国の統一を目ざした新羅の支配階層,とりわけ,花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作されたものといわれている。…
※「金銅仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」