外野村(読み)とのむら

日本歴史地名大系 「外野村」の解説

外野村
とのむら

[現在地名]酒田千代田ちよだ

宮野内みやのうち村枝郷の北宮野内村の北にある。内郷うちごう街道が通り、東側を日向につこう川の支流草田くさた川が南流する。殿村とも記す。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高四五四石余と九七石余で計五五二石余。寛永元年庄内高辻帳に殿村亥ノ興として高四五石余のみが載り、同三年庄内高辻帳では八八一石余。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)の高七七九石余、ほかに兵右衛門新田五〇石。正保郷帳では田方八〇七石余・畑方四六石余。正保三年(一六四六)には鮭四尺二分の代銀一四匁七分を納めている(庄内三郡左沢浮役帳)


外野村
とのむら

[現在地名]関宮町外野

川原場かわらば村の西に位置し、西は草出くさいで村。集落八木やぎ川上流域では比較的広い同川北岸の河岸段丘上に形成される。近世までは七美しつみ郡に属した。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「との村」「同大郎兵衛殿」「同政所殿」などとみえる。江戸時代は旗本山名領。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)には「百七十三石一斗四升八合 川間村」とみえるが、この川間村は当村にあたるか。


外野村
そとのむら

[現在地名]加須市外野

北は利根川を境とし、東は佐波ざわ(現大利根町)、南は樋遣川ひやりかわ村、西は大越おおごえ村。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高六八石余・畑高三四九石余、ほかに野銭永三貫文があり、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。「風土記稿」によると上・下二村に分れており、化政期には三卿の一家である一橋領。同家領は延享三年(一七四六)からで(同書など)幕末まで続いたと思われる(改革組合取調書など)。持添新田があり、貞享四年(一六八七)、享保一二年(一七二七)・同一八年、明和九年(一七七二)に検地が行われた(風土記稿)。明治七年(一八七四)上・下が合併して旧に復し、「郡村誌」では八六戸・四二二人、ほかに出寄留四人・外寄留四人、荷船一(八〇石積)・漁船一・歩行渡船一。


外野村
そとのむら

[現在地名]大垣市外野・外野町

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の南西部に位置し、北は割田わりでん村・いま村。寛永一六年(一六三九)から正保三年(一六四六)の間に割田村の野方を開拓してできた村とされる。一説には、元和六年(一六二〇)浅野彦三郎・八兵衛の兄弟が開拓したともいう。江戸時代は大垣藩領。初め割田村の枝郷で外野新田と称したが、分村して外野村となったらしい。


外野村
とのむら

[現在地名]羽黒町戸野との

野荒町のあらまち村の北東ささ川右岸にあり、北は町屋まちや村。戸野とも記した。笹川分流まえ川に灌漑用水を依拠する集落で、町屋村とともに古くからの開発が伝えられ、享保年中(一七一六―三六)に東外野を合併して一集落をなしたとも伝える。寛永元年庄内高辻帳に村名が載り、高三五三石余、正保郷帳では田高三三九石余・畑高一三石余。


外野村
そとのむら

[現在地名]勝田市東石川ひがしいしかわ・はしかべ一―二丁目

おお川の右岸に位置し、北は下高場しもたかば村。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「そとの 大志ま」とあり、佐竹氏の一族東義久の知行地であった。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「外野大島村」と記され、同二一年の御知行割郷帳に「外野村」とみえる。


外野村
そとのむら

[現在地名]鷲宮町外野・桜田さくらだ

西大輪にしおおわ村の南東にある同村枝郷。元禄一〇年(一六九七)に分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に高二八三石余とあり、国立史料館本元禄郷帳によれば旗本三浦領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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