町屋村(読み)まちやむら

日本歴史地名大系 「町屋村」の解説

町屋村
まちやむら

[現在地名]荒川区町屋一―八丁目・荒川六―七丁目

三河島みかわしま村の北西、荒川(現隅田川)南岸の沖積地にある。北は上尾久かみおぐ村の河沿新田。三ッ塚(現町屋火葬場の東隣)から嘉元四年(一三〇六)四月銘のものをはじめとする約三〇基の鎌倉時代後期の板碑が出土している(「町屋の民俗」など)。田園簿に町屋村とあり、田一三七石余・畑七一石余、幕府領。寛文五年(一六六五)以前に一〇七石余が東叡山寛永寺に寄進され(寛文朱印留)、貞享二年(一六八五)までに高二二七石余すべてが寛永寺領となった(「東叡山領知目録写」東叡山方書物之写)。旧高旧領取調帳では高三二〇石余、寛永寺領。化政期の家数七二(風土記稿)。明治二年(一八六九)当時の峡田はけた領諸村の畑方の永高を書上げた畑方永納預入用割之帳(小泉家文書)によれば町屋村は高一〇八石余で、正保期(一六四四―四八)からの増加割合は低い。寛延三年(一七五〇)三河島村検地帳(松本家文書)によれば、町屋村は下田・下畑が多く地味は良くない。


町屋村
まちやむら

[現在地名]金沢区町屋町・平潟ひらかた

北は称名しようみよう寺門前の六浦寺前むつらてらのまえ村、東は当村と六浦寺前・洲崎すさき三ヵ村入会の金沢原かねさわはらを経て乙舳おつとも海岸、西は谷津やつ村・金沢入江の泥亀新田でいきしんでん村、南は洲崎村に連なる。村中央を南北に金沢かねさわ道が通る。

文保元年(一三一七)の称名寺釘日記(県史二)に「已上廿三貫 文保元年六月七日下行之、町屋所□分」とみえ、明徳元年(一三九〇)七月一三日の称名寺領塩垂場年貢銭結解状(県史三)にも「惣都合三十六貫二百八十一文町屋九度分 洲崎四度分」とあり、当地に釘の商いや製塩に携わる者の存在がうかがわれる。「風土記稿」には「元は称名寺大門内にて民戸軒を連ね住せし故この名を負へり」と伝えている。


町屋村
まちやむら

[現在地名]国府町町屋

宮下みやのした村の南東に位置する。ふくろ川右岸の宇倍野うべの山の麓に支村の橋本はしもと村があり(因幡志)、同村を法美ほうみ往来が通る(文政年間「法美郡全図」県立図書館蔵)。本村は同川左岸の沖積地に立地。町役場保管の明徳四年(一三九三)の銅鰐口銘に「因州法美郡広西郷五日市町屋 地福寺」とみえる。鰐口は寺前てらまえで出土しており、当地は地福じふく(現在は麻生に移転)の門前町化していたと推定される五日市町屋の遺称地と考えられる。東のこしき山には南北朝期に甑山城が築かれ、永禄―元亀年間(一五五八―七三)には山中幸盛が居城して武田高信と合戦したと伝える(因幡民談記)

藩政期の拝領高は五八九石余、本免は六ツ三分。羽田氏・洞氏・大塚氏・田淵氏・建部氏・丹羽氏・三原氏の給地があった(給人所付帳)


町屋村
まちやむら

[現在地名]羽黒町町屋

中里なかざと村の北に位置し、北は田屋たや村。ささ川に灌漑用水を依拠する流域一帯の中心村落として、最も早く開かれた地と伝える。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、寛永元年庄内高辻帳では高四五〇石余。弍郡詳記によれば高四四六石余、免五ツ六分、家数二一。笹川に灌漑用水を依拠する村々では分水をめぐり度々水争いがあった。最大の水争いといわれた嘉永年間(一八四八―五四)の一件の際、東堀越ひがしほりこし(現藤島町)と対立した当村をはじめとする西川にしかわ堰郷の村民は度々地内の六所ろくしよ神社境内に集合、気勢を上げていた(嘉永元年「水論一件御用留」富樫文書)


町屋村
まちやむら

[現在地名]津市栗真町屋くりままちや

白塚しらつか村の南に位置し、東は伊勢の海、西は志登茂しとも川が流れて平野ひらの村との境をなす。村域内に伊勢参宮街道が走る。中世、栗真くるま(現鈴鹿市)に属したといわれ、後に栗真くりま村の名を生むことになる。文禄検地帳写(徳川林政史蔵)が町屋・白塚・中山なかやま小川こがわ中瀬なかぜ高佐たかさ(現安芸郡河芸町)を一括して「安芸郡千王名」と表していることから、荘園制の頃当地が千王という田堵クラス農民の請作地であったと推定される。「五鈴遺響」に当村の旧名を根上ねあがり村と記しており、町屋と変わった時期は明らかではない。


町屋村
まちやむら

[現在地名]常陸太田市町屋町

里川の左岸渓谷にあり、北は西河内下にしごうとしも村。棚倉たなぐら街道の駅所にあたる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「町屋村」とみえる。かつては名石の斑石が産出し、「水府志料」に「笹ノ葉、鼈甲、薄斑山野に産す。国禁にて、漫に取る事不許。尤さゝのは、まだら上品とす」とある。また煙草は文化七年(一八一〇)に当村の和田治兵衛が発明した収穫葉乾燥の幹干法によってその声価を得、明治四一年(一九〇八)に建立された「水戸国府記」の碑文に「水戸国府とは何ぞ。


町屋村
まちやむら

[現在地名]今治市町谷まちや

町谷村とも書かれ、明治以降は「町谷」に統一された。今治平野南部、頓田とんだ川左岸にある村。平坦であるが、頓田川と多岐たき川による砂礫層の堆積が著しく、かなりの傾斜をもつ。東の頓田川対岸は宮崎みやがさき村で、川を越えて町屋村中央部へ宮崎村の一部が深く入り込んでいる。北は高市たかいち村・松木まつぎ村、西は新谷にや村、南は朝倉下あさくらしも村・山口やまぐち村・古谷こや(現越智郡朝倉村)に接する。

全村域が弥生期から古墳期にかけての複合遺跡で、住居跡をも含み、とくに姫坂ひめさか神社付近の発掘調査では、阿方あがた貝塚に先行する弥生前期初頭の木葉文土器を出土した。


町屋村
まちやむら

[現在地名]真壁町真壁

桜川左岸にあり、東は古城ふるしろ村、西は飯塚いいつか村。古代は「和名抄」記載の真壁郷の本郷の地といわれる。承安二年(一一七二)に多気直幹の子六郎長幹が真壁城を築いた後は真壁氏の本拠となり、城市として栄えた。慶長七年(一六〇二)真壁氏は秋田に移ったが、のち「人家ノアル所ヲ町屋村トシ、古城ノアル所ヲ古城村ト云フ、然ドモ国人尚旧名ヲ忘レズ、今ニ真壁ト称ス」(新編常陸国誌)とあるように二村に分村した。


町屋村
まちやむら

[現在地名]大信村町屋

村の南を東流する隈戸くまど川河岸段丘に位置し、南は増見ますみ村、北は岩瀬郡大里おおさと(現天栄村)、西は同郡下小屋しもごや村、東は上新城かみしんじよう村。村の中央を東西に矢吹やぶき(現矢吹町)への道、南北に増見村から大里村への道が通る。子安地蔵堂境内に移転された嘉永七年(一八五四)東堂とうどう山碑の台石に「右 矢吹 左 大里」とある。馬の守神として信仰のあった東堂山(現小野町)の碑に道標を刻み道中安全を願ったもの。会津領から寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文政三年(一八二〇)以後幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二五四石余。


町屋村
まちやむら

[現在地名]高崎市町屋町

碓氷うすい郡に属し、からす川右岸の村で、川を隔てて北は群馬郡本郷ほんごう(現榛名町)と同郡西新波にしあらなみ村。家並がそろってあたかも町屋のようだったことから町屋と称したという(八幡村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ前橋藩領。寛文郷帳では田方七八石余・畑方一四九石余。二四石余が幕府領、二〇三石余が前橋藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では高崎藩領で、家数四八。天保五年(一八三四)、幕府は公儀用材として川浦かわうら(現群馬郡倉淵村)から大量の槻を伐り出して烏川を流した。上流では堰出しと管流しを繰返しながらしだいに下流に至るが、当村辺りで小筏に組立てて流し、下流のふじ河岸(現埼玉県児玉郡上里町)で本筏に組んで江戸へ送った(倉淵村誌)


町屋村
まちやむら

[現在地名]鶴ヶ島市町屋

北東流する高麗こま川右岸の坂戸台地上にある。北東はかみ新田村、南は入間いるま駒寺野こまでらの新田(現日高市)、西は同郡四日市場よつかいちば(現坂戸市)。町谷村とも記す。高麗郡高麗領に属した。隣接する入間郡の村民により開墾されたと伝え、寺家じけ村とも称されたという(風土記稿)。田園簿では入間郡に町屋村がみえ、高五〇石余で皆畑、ほかに野銭永五〇〇文。幕府領。寛文八年(一六六八)の検地帳(鶴ヶ島市教育委員会蔵)によると、畑三六町余・屋敷一反余、ほかに寺院地があった。名請人四〇名、屋敷持三名で、名請人の大半が入作百姓であったらしい。元禄郷帳では高一七二石余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領となり(「田安領知村高記」葛生家文書など)、以後幕府領に復した。


町屋村
まちやむら

[現在地名]中島町町屋

羽咋はくい郡に属し、むしヶ峰を背後に東麓から熊木くまき川中流南岸にかけて開けた村で、南は上畠うわばたけ村。往古虫ヶ峰に観音堂があり、麓にあった多くの真言寺院が退転したあとに村が成立したという(能登志徴)正保郷帳によると高二一四石余、田方九町五反余・畑方四町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二二五石、免四ツ六歩、小物成は山役四九匁・苦竹役四匁、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。貞享元年(一六八四)の村々百姓持高帳(津梅文書)によれば高・免は同じで、百姓一〇・頭振一。


町屋村
まちやむら

[現在地名]七尾市町屋町

二宮にのみや川中流左岸の村で、川上は三階みかい村、川下は温井ぬくい村。町屋の地名は町屋根造の家が数軒あったからとか、人を待つ茶屋があったからだと伝える(宇ぶ砂土筆)。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高二二一石余。正保郷帳によると三階村・町屋村の高七一九石余、田方四五町三反余・畑方二町五反余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)では三一五石、免五ツ四歩九厘。同年加賀藩直轄領となり、延宝七年(一六七九)の村御印では高三一〇石、免四ツ四歩、満仁まに村から越高一六六石(免二ツ四歩)、小物成は山役二匁・苦竹役二匁・鳥役三匁(三箇国高物成帳)


町屋村
まちやむら

[現在地名]五泉市町屋

能代のうだい川右岸の自然堤防上にある。西は川を隔てて四ッ屋よつや村、南は千原ちわら(現中蒲原郡村松町)に接し、南部に六条ろくじよう、北部に京分きようぶの集落がある。中世は菅名すがな庄に属し、仁治三年(一二四二)の開発と伝える(中蒲原郡誌)。慶長三年(一五九八)村上藩領となり、同一九年の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では五泉町組に属した。元和四年(一六一八)藩主堀氏の検地があり、正保国絵図に六二〇石余、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高七九一石七斗余とある。


町屋村
まちやむら

[現在地名]新宮町栗町くりまち

千本せんぼん村の南西に位置し、栗栖くりす川の上流域に立地する。揖西いつさい郡に属した。北は栗田くりた村。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)に村名がみえ、池田輝政による内検地高一三三石余、高一一〇石余。初め姫路藩領であるが、元和三年(一六一七)龍野藩領となり、明暦四年(一六五八)幕府領となる(「寛政重修諸家譜」、前掲高辻帳など)。元禄一〇年(一六九七)三日月藩領となり幕末に至る(「森家譜」東京大学史料編纂所蔵、旧高旧領取調帳など)


町屋村
まちやむら

[現在地名]酒田市漆曾根うるしそね

布目ぬのめ村の西、下漆曾根しもうるしそね村の南にあり、新井田にいだ川中流右岸に位置する。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一〇二石余。正保郷帳によると田方一〇八石余・畑方五石余。寛永元年庄内高辻帳の高は一二七石余。明暦二年(一六五六)には高一一三石余で、のち一三七石余となり、免五ツ二分、町新田七石余・免二ツ五分(飽海郡誌)。享和三年(一八〇三)の家数一〇・人数五四(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


町屋村
まちやむら

[現在地名]一宮市千秋ちあき町屋まちや

芝原しばはら村の南にあり、村の西境を青木あおき川が流れ、中央を浅井あざい街道が通り、上下二区に分れていた(天保村絵図)岩倉いわくら城があったときの町家という(尾張志)。天正末は織田信雄の家臣中川弥助の知行地があった(織田信雄分限帳)

文禄四年(一五九五)秀吉朱印状(稲葉文書)に「一、八拾六石八斗七升 (尾州丹羽郡)まちや村内」とみえ、稲葉彦六(典通)の知行地があった。


町屋村
まちやむら

[現在地名]羽生市町屋

下手子林しもてこばやし村の南、あいの川左岸の自然堤防上に位置する。東は岡古井おかふるい(現加須市)。田園簿によると幕府領、田高八五一石余・畑高二六九石余。村高は寛永年間(一六二四―四四)初期に開発されたという町屋新田分を含む。元禄(一六八八―一七〇四)以後分村したといわれるが(風土記稿)、元禄郷帳・天保郷帳ともに町屋新田分も含んでいる。承応二年(一六五三)幕府領代官の検地があり(風土記稿)、幕末の改革組合取調書によれば高五〇三石余。


町屋村
まちやむら

[現在地名]福井市町屋一―三丁目・文京ぶんきよう一丁目

福井城下北口、加賀口かがぐち御門外の北陸街道東側にある農村で、北は大願寺だいがんじ村・幾久いくひさ村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「阿布布東之郷」に含まれ、正保郷帳から村名がみえる。同帳によると、田方六八三石余・畠方七五石余。福井藩領。


町屋村
まちやむら

[現在地名]大田区西六郷にしろくごう一―三丁目・仲六郷なかろくごう一―二丁目

古川ふるかわ村の東、六郷川(多摩川)左岸の低地に立地し、東境近くを東海道が通る。東方雑色ぞうしき村に飛地がある。中世の東海道と伝える古街道が通り、道沿いに町屋があったのが村名の由来という(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田方一一五石余・畑方五四石余、幕府領。


町屋村
まちやむら

[現在地名]荘川村町屋

しよう川の支流町屋川の流域に開けた村で、東は庄川を隔てて新淵あらぶち村。白川しらかわ街道が通り、町屋めいた造りの家が多かったので町屋村とよばれたという(斐太後風土記)。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高一三石余、田一〇町九反余・畑一町三反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割八分一厘、家数一〇、うち百姓六・門屋四。


町屋村
まちやむら

[現在地名]笠松町門間かどま

舟原ふなはら村の南に位置し、時期は不明だが同村から分離独立した村。元禄郷帳にみえ、北舟原村枝郷とある。高八九石余、旗本中川領(幕末に至る)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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