大内兵衛(読み)オオウチヒョウエ

デジタル大辞泉 「大内兵衛」の意味・読み・例文・類語

おおうち‐ひょうえ〔おほうちヒヤウヱ〕【大内兵衛】

[1888~1980]経済学者。兵庫の生まれ。東大教授。のちに法政大学総長マルクス(主義)経済学の立場で、日本経済学の形成に寄与。その門下からは多くの学者が輩出した。著「財政学大綱」「経済学五十年」など。

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精選版 日本国語大辞典 「大内兵衛」の意味・読み・例文・類語

おおうち‐ひょうえ【大内兵衛】

  1. 経済学者。兵庫県に生まれる。東大教授。退職後、法政大学総長。マルクス主義者として社会主義運動に大きな影響力を持っていた。著書に「財政学大綱」「日本財政論公債篇」など。明治二一~昭和五五年(一八八八‐一九八〇

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20世紀日本人名事典 「大内兵衛」の解説

大内 兵衛
オオウチ ヒョウエ

大正・昭和期の経済学者,財政学者,思想家,随筆家 東京大学名誉教授;法政大学名誉教授・総長。



生年
明治21(1888)年8月29日

没年
昭和55(1980)年5月1日

出生地
兵庫県洲本(淡路島)

学歴〔年〕
東京帝大法科大学経済科〔大正2年〕卒

学位〔年〕
経済学博士

経歴
大蔵省勤務を経て、大正8年東京帝大経済学部新設に伴い財政学担当助教授となったが、9年に森戸事件に連座して退官。ドイツに留学後、12年から東京帝大に戻り教授。昭和13年には人民戦線事件の教授グループの1人として検挙され休職となる。戦後の20年末東大に復帰したが、24年定年退官し、25年から10年間、法大総長を務め、ほかに社会保障制度審議会会長、統計審議会会長、日本統計学会会長などを歴任。この間、マルクス経済学長老として有沢広巳美濃部亮吉ら一流の学者を育てた。また25年社会主義協会の設立に参加、社会党左派の理論的指導者として活躍し、33年には憲法問題研究会の代表世話人となり、42年からは美濃部東京都知事のブレーンを務めた。著書に「財政学大鋼」「日本財政論・公債編」「明治財政経済史文献解題」のほか、「大内兵衛著作集」(全12巻 岩波書店)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大内兵衛」の意味・わかりやすい解説

大内兵衛
おおうちひょうえ
(1888―1980)

経済学者。明治21年8月29日兵庫県淡路島に生まれる。1913年(大正2)東京帝国大学法科大学経済学科卒業。大蔵省を経て19年東京帝国大学経済学部助教授となり財政学を担当。20年1月森戸事件に連座して退職。21年ドイツに私費留学、留学中の22年特赦により東大復職、23年帰国とともに教授として財政学第二講座を担当。この講義テキストとして30年(昭和5)に出版した『財政学大綱』は、当時学界主流であった社会政策学派に対し、科学的社会主義の立場からの財政学を初めて体系化したものである。38年人民戦線事件の「教授グループ」の一員として検挙され、東大休職、45年(昭和20)敗戦により東大復帰、49年定年退官。この間、多数の著述を出版、また門下に幾多の学者を輩出した。退官後は法政大学総長、社会保障制度審議会会長などの要職を歴任、また晩年は、マルクス主義の立場にたつ論文の発表を通じ、社会主義運動への影響力も大きかった。昭和55年5月1日没。主要著書には『財政学大綱』のほか、『日本財政論 公債篇(へん)』(1932)、『明治財政経済史文献解題』(1933)、『日本インフレーションの研究』(共著・1946)などがあり、A・スミスの『諸国民の富』、エンゲルスの『空想より科学へ』などの翻訳もある。

[御園生等]

『『大内兵衛著作集』全12巻(1974~75・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大内兵衛」の意味・わかりやすい解説

大内兵衛
おおうちひょうえ

[生]1888.8.29. 淡路島
[没]1980.5.1. 鎌倉
経済学者,財政学者。マルクス経済学の労農派グループの筆頭。 1913年東京大学法科大学経済科卒業。大蔵省勤務後,18年母校の講師を経て,翌年経済学部助教授となり,財政学講座を担当。 20年森戸事件に連座し,大学を追われた。 21年ドイツへ留学,22年母校に復職し,翌年帰国とともに教授となる。講義テキストとして出版した『財政学大綱』 (1930~31) は当時の学会主流をなしたドイツ社会政策学派に対し,イギリスの古典学派の財政学を徹底させたものとして評価されている。 38年いわゆる人民戦線事件教授グループの一人として起訴され,大学を再び追われる。 45年また母校に復職し,49年停年退官。 50~59年法政大学総長。この間 47年内閣統計委員会委員長,社会保障制度審議会会長などに就任。また日本学士院会員,大原社会問題研究所顧問,美濃部革新都政をつくる会の会長などをつとめた。ほかに『日本財政論』 (32) ,『明治財政経済史文献解題』 (33) など著訳書多数。『大内兵衛著作集』 (12巻) が刊行されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「大内兵衛」の意味・わかりやすい解説

大内兵衛 (おおうちひょうえ)
生没年:1888-1980(明治21-昭和55)

経済学者,財政学者。兵庫県淡路島に生まれ,1913年東大法科大学経済学科卒。49年定年まで東大で財政学を講じ,科学的な財政学を確立した。その間1920年森戸事件にまきこまれたり,38年教授グループ事件(人民戦線事件)で検挙されたりして多難であったが,多くの学者を育て日本のマルクス経済学の一大山脈を形成した。東大退官後法政大学総長(1950-59)を務め,また統計制度や社会保障制度の整備のために尽力し,他方憲法擁護の運動に活躍した。平明達意の文章で随筆家としても知られた。主著《財政学大綱》上・下(1930-31)のほか,多くの経済学書,翻訳,随筆があり,《大内兵衛著作集》全12巻(1974-75)に収められている。
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百科事典マイペディア 「大内兵衛」の意味・わかりやすい解説

大内兵衛【おおうちひょうえ】

経済学者,財政学者。兵庫県淡路島出身。東大卒業後,大蔵省に勤務,1919年東大助教授となったが翌年森戸事件で辞職。1922年復職,1938年の労農派教授グループ事件(人民戦線事件)まで財政学を講じた。戦後東大に復職,1949年定年退官まで教授,1950年―1959年法政大学総長を務め,日本のマルクス経済学の多数の学者を育てた。主著《財政学大綱》は日本で初めてマルクス主義財政学を樹立した労作。
→関連項目有沢広巳大内力美濃部亮吉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内兵衛」の解説

大内兵衛 おおうち-ひょうえ

1888-1980 大正-昭和時代の経済学者。
明治21年8月29日生まれ。大蔵省勤務ののち,大正8年東京帝大助教授となるが,翌年森戸事件で辞職。11年復職し,教授として,マルクス主義の立場で財政学を講じた。昭和13年人民戦線事件で検挙。戦後,東京帝大に復帰し,25年法大総長となる。革新勢力の理論的指導者でもあった。昭和55年5月1日死去。91歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作に「財政学大綱」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大内兵衛」の解説

大内兵衛
おおうちひょうえ

1888.8.29~1980.5.1

大正・昭和期の経済学者。兵庫県出身。東大卒。大蔵省勤務ののち1919年(大正8)東京帝国大学経済学部新設により助教授。20年の森戸事件で失官したが22年復職,翌年教授。38年(昭和13)人民戦線事件で検挙。第2次大戦後東大に復帰し,49年の退官後は法政大学総長,社会保障審議会会長などを歴任。平和憲法擁護を主唱し,革新勢力の精神的指導者でもあった。「大内兵衛著作集」全12巻。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大内兵衛」の解説

大内兵衛
おおうちひょうえ

1888〜1980
財政学者
兵庫県の生まれ。1919年東大助教授。森戸事件で退官し,ヨーロッパに留学。'23年帰国後,復職し教授となる。労農派の重鎮として活躍したが,日中戦争中の'38年人民戦線事件で検挙され休職。第二次世界大戦後,大学に復帰し,のち法政大総長に就任。東大・法政大名誉教授。

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367日誕生日大事典 「大内兵衛」の解説

大内 兵衛 (おおうち ひょうえ)

生年月日:1888年8月29日
大正時代;昭和時代の経済学者;財政学者。東京大学教授;社会保障制度審議会会長
1980年没

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世界大百科事典(旧版)内の大内兵衛の言及

【大原社会問題研究所】より

…大原は初代所長高野岩三郎を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造,細川嘉六,笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。アナーキズム文献では世界有数の〈エルツバッハ文庫〉や,年鑑編集のため社会運動団体の原資料などを収集したほか,講習会や研究生の育成も行った。…

【社会主義協会】より

…安部磯雄を会長に,片山潜,幸徳秋水らを擁して社会主義の研究と啓蒙にあたり,平民社と一体となって草創期の日本社会主義に大きな足跡を残したが,日露戦争中の04年11月に警察当局から解散を命じられた。(2)1951年1月,戦前の労農派の流れをくむ山川均,大内兵衛,向坂逸郎らの理論家に太田薫,岩井章,高野実らの労働運動指導者が加わって発足し,6月に雑誌《社会主義》を創刊。代表は山川,大内で,58年山川没後は大内,向坂が代表を務めた。…

【平和問題談話会】より

…第2次世界大戦後,再び国際情勢が緊迫してきた1948年7月に発表されたユネスコの社会科学者による平和の訴えに示唆を受け,同年12月12日に東京青山の明治記念館に安倍能成,仁科芳雄,大内兵衛ら50余名が集い,〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉を出したが,これに署名した学者が,49年初頭に東西でそれぞれ東京平和問題談話会,京都平和問題談話会を組織し,同年12月21日,東京丸の内の工業俱楽部で総会を開き,横田喜三郎,入江啓四郎を招いて討議し,〈講和問題についての声明〉をまとめ,50年1月15日付で発表,全面講和の実現を要望した。その後,研究と討論を重ね,朝鮮戦争勃発後,同年9月に〈三たび平和について〉を発表した。…

【マルクス経済学】より

…これがいわゆる〈二段階革命論〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。 これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均猪俣津南雄,向坂逸郎(1897‐1985),大内兵衛櫛田民蔵,土屋喬雄(1896‐1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。…

【森戸事件】より

…東京帝国大学経済学部助教授森戸辰男(1888‐1984)が同学部紀要《経済学研究》の創刊号論文《クロポトキンの社会思想の研究》によって新聞紙法の朝憲紊乱罪違反に問われ,1920年1月に起訴され,禁錮2ヵ月・罰金70円に処せられた筆禍事件。紀要編集発行名義人の助教授大内兵衛も禁錮1ヵ月・罰金20円(執行猶予2年)の刑をうけた。上杉慎吉や右翼団体興国同志会らは同論文を危険思想であると喧伝し,経済学部教授会は両人の休職を決議するなど,原敬首相兼法相,平沼騏一郎検事総長らの強圧に屈した。…

※「大内兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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