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後藤象二郎 ごとうしょうじろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう

[生]天保9(1838).3.19. 土佐
[没]1897.8.4. 東京
政治家。明治維新における徳川慶喜の大政奉還自由民権運動末期の大同団結運動に大きな役割を果した。 1889~92年逓信大臣,92~94年農商務大臣をつとめた。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

後藤象二郎

土佐藩政の最高責任者・参政を務めた。1867(慶応3)年1月、脱藩者の坂本龍馬と長崎の清風亭で会談したことが、土佐藩が大政奉還に向けて動き出す契機となった。龍馬は姉の乙女らへの手紙で後藤について「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評している。

(2010-10-30 朝日新聞 朝刊 2社会)

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デジタル大辞泉の解説

ごとう‐しょうじろう〔‐シヤウジラウ〕【後藤象二郎】

[1838~1897]政治家土佐の人。公武合体大政奉還運動に活躍。明治維新後は新政府に仕えたが、征韓論に敗れて下野板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立建白書の提出に参画。のち、大同団結運動を提唱した。逓信相・農商務相を歴任

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百科事典マイペディアの解説

後藤象二郎【ごとうしょうじろう】

明治の政治家。土佐高知藩の出身。公議政体論を唱え前藩主山内豊信に大政奉還建白させた。明治政府では参与参議を歴任したが征韓論に敗れ,西郷隆盛,板垣退助とともに下野。
→関連項目岩崎弥太郎海援隊黒田清隆内閣高知[県]高知藩薩土盟約自由民権福岡孝弟山内容堂吉田東洋

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後藤象二郎 ごとう-しょうじろう

1838-1897 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)9年3月19日生まれ。土佐高知藩士。前藩主山内豊信(とよしげ)を説得し,大政奉還の建白書を幕府に提出。新政府の参議などを歴任するが,明治6年征韓論争に敗れて辞任。14年板垣退助らと自由党を結成。反政府大同団結運動をおこなうが,のち政府に協力し,逓信相,農商務相などをつとめた。伯爵。明治30年8月4日死去。60歳。幼名は保弥太。通称は良輔。号は暘谷。

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朝日日本歴史人物事典の解説

後藤象二郎

没年:明治30.8.4(1897)
生年:天保9.3.19(1838.4.13)
幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。<参考文献>岩崎英重『後藤象二郎』,大町桂月『伯爵後藤象二郎伝』

(福地惇)

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世界大百科事典 第2版の解説

ごとうしょうじろう【後藤象二郎】

1838‐97(天保9‐明治30)
幕末・維新期および明治期の政治家。土佐藩士で馬廻(うままわり)格。父は助右衛門。良輔のち象二郎。義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが,東洋暗殺後は逆境にあった。藩論一変後の1864年(元治1)に大監察となり,藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて土佐勤王党を断罪,66年(慶応2)には参政として開成館事業を運営し,長崎,上海に赴くなどして藩の〈富国強兵〉につとめた。坂本竜馬と相知り,幕府の第2次征長失敗後,竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化することにつとめた。

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大辞林 第三版の解説

ごとうしょうじろう【後藤象二郎】

1838~1897) 政治家。土佐藩の出身。山内容堂に大政奉還の建白をさせた。維新後、参与・参議。征韓論により下野。自由民権運動に参加して、自由党結成に参加。解党後、大同団結運動を展開。逓相・農商務相を歴任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう
(1838―1897)

明治期の政治家。天保(てんぽう)9年3月19日、土佐国片町(高知市与力(よりき)町)に生まれる。父は土佐藩士後藤助右衛門、母は大塚氏。家格は馬廻(うままわり)320石。幼名保弥太(やすやた)、のちに良輔(りょうすけ)、さらに象二郎。号は暘谷(ようこく)。1863年(文久3)江戸に出て開成所に学ぶ。1865年(慶応1)大監察となり武市瑞山(たけちずいざん)らを裁く。1867年の土佐藩の大政返上建白運動を主導し、家老に昇進。1871年(明治4)左院議長。1873年参議。同年征韓論に敗れて辞任。翌年民撰(みんせん)議院設立建白書に署名、高島炭坑の経営に着手。1875年元老院副議長。1881年結成の自由党常議員。翌年井上馨(いのうえかおる)らとの密議により三井家から旅費を引き出し、板垣退助(いたがきたいすけ)と外遊。1887年5月9日伯爵。同年夏から政府の条約改正に反対する運動が台頭するや大同団結運動を唱導したが、1889年3月に運動を放棄して黒田清隆(くろだきよたか)内閣の逓信(ていしん)大臣に就任。1891年1月の第1回帝国議会が予算案をめぐって政府と民党が激突したとき、民党の切り崩しを画策し成功。第5回帝国議会において、経済界との癒着、官紀紊乱(びんらん)の攻撃を受け、1894年1月22日第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の農商務大臣を辞任し、政治生命は終わった。明治30年8月4日病死。正二位勲一等、旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)。墓は東京青山。[外崎光廣]
『大町桂月著『伯爵後藤象二郎』(1914・冨山房) ▽大橋昭夫著『後藤象二郎と近代日本』(1993・三一書房)』

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世界大百科事典内の後藤象二郎の言及

【紙・パルプ工業】より


[日本における沿革]
 日本における洋紙生産は,旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に1872年(明治5)設立した有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月に製造したのが最初である。75年には,後藤象二郎らの経営する蓬萊社(後藤が製糖の目的で1872年設立)が大阪で製紙工場を開業し,東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で設立した三田製紙所が開業した。また1873年には渋沢栄一らが〈抄紙会社〉(のちの王子製紙)を設立し,苦心の末75年7月に操業を開始している。…

【高麗橋】より

…幕末には幕府の外交や内治を批判し,あるいは庶民の困窮を訴えるはり紙がたびたび掲示された記録がある。明治維新後,本木昌造から鉄橋の利点を聞いた大阪府知事後藤象二郎は,1868年(明治1)イギリス商社と契約して橋の架替えに着手,1870年9月完工した。これは大阪最初の鉄橋であった。…

【三大事件建白運動】より

…上記の3件はそのために選ばれたスローガンであり,各地の有志者は元老院に対する建白書を携えて府県庁に押しかけ,また代表委員を上京させて元老院や政府高官の門をたたいた。10月に後藤象二郎が民権各派の連合を策して丁亥俱楽部を創設した前後から年末にかけて,建白運動は関東・東北から西南地方にまで広がり,東京には各地の有志者・壮士が結集して騒然たる空気が伝えられた。脅威を感じた政府は,12月26日保安条例を発して彼らを皇居から3里以遠に追放し,運動を鎮静した。…

【大政奉還】より

…慶応期(1865‐68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。…

【土佐藩】より

…その後,天保年間(1830‐44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。【依光 貫之】。…

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