明治期の政治家。天保(てんぽう)9年3月19日、土佐国片町(高知市与力(よりき)町)に生まれる。父は土佐藩士後藤助右衛門、母は大塚氏。家格は馬廻(うままわり)320石。幼名保弥太(やすやた)、のちに良輔(りょうすけ)、さらに象二郎。号は暘谷(ようこく)。1863年(文久3)江戸に出て開成所に学ぶ。1865年(慶応1)大監察となり武市瑞山(たけちずいざん)らを裁く。1867年の土佐藩の大政返上建白運動を主導し、家老に昇進。1871年(明治4)左院議長。1873年参議。同年征韓論に敗れて辞任。翌年民撰(みんせん)議院設立建白書に署名、高島炭坑の経営に着手。1875年元老院副議長。1881年結成の自由党常議員。翌年井上馨(いのうえかおる)らとの密議により三井家から旅費を引き出し、板垣退助(いたがきたいすけ)と外遊。1887年5月9日伯爵。同年夏から政府の条約改正に反対する運動が台頭するや大同団結運動を唱導したが、1889年3月に運動を放棄して黒田清隆(くろだきよたか)内閣の逓信(ていしん)大臣に就任。1891年1月の第1回帝国議会が予算案をめぐって政府と民党が激突したとき、民党の切り崩しを画策し成功。第5回帝国議会において、経済界との癒着、官紀紊乱(びんらん)の攻撃を受け、1894年1月22日第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の農商務大臣を辞任し、政治生命は終わった。明治30年8月4日病死。正二位勲一等、旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)。墓は東京青山。
[外崎光廣]
『大町桂月著『伯爵後藤象二郎』(1914・冨山房)』▽『大橋昭夫著『後藤象二郎と近代日本』(1993・三一書房)』
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(福地惇)
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幕末・維新期および明治期の政治家。土佐藩士で馬廻(うままわり)格。父は助右衛門。良輔のち象二郎。義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが,東洋暗殺後は逆境にあった。藩論一変後の1864年(元治1)に大監察となり,藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて土佐勤王党を断罪,66年(慶応2)には参政として開成館事業を運営し,長崎,上海に赴くなどして藩の〈富国強兵〉につとめた。坂本竜馬と相知り,幕府の第2次征長失敗後,竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化することにつとめた。維新政府には参与として参画,東京遷都論を主張し,また板垣退助と土佐藩政改革を推進した。工部大輔,左院議長など歴任後,73年参議になったが,明治6年(1873)10月の政変で征韓論にやぶれて下野,板垣らと民撰議院設立建白書を左院に提出した。75年高島炭鉱の経営に乗り出したが失敗,同年に元老院議官となり,副議長をつとめたものの,翌年辞職した。81年,自由党結成に参加し,翌年の板垣との渡欧は,資金の出所(政府が自由党勢力弱体化を図るため,三井の資金で洋行させた)をめぐって問題となった。帰国後,朝鮮独立党の金玉均を支援したり,87年には政府の軟弱外交を非難して大同団結運動を指導したりしたが,89年,突如黒田清隆内閣に逓信大臣として入閣,以後,山県有朋,松方正義両内閣に留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣となった。細節に拘泥せず,清濁併せ呑む東洋風の豪傑とも評されたが,三宅雪嶺をしていわしめれば,〈隠忍して首相職を拝するの機会を待ち,遂に果さず〉(《同時代史》第3巻)ということになる。伝記に大町桂月《伯爵後藤象二郎》(1914)がある。
執筆者:田中 彰
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1838.3.19~97.8.4
幕末~明治期の高知藩士・政治家。藩主山内豊信(とよしげ)を補佐し,1867年(慶応3)坂本竜馬の意見に賛同して大政奉還運動に挺身,実現させた。明治政府に参与兼外国官事務掛として出仕,以後工部大輔・左院議長・参議を務めたが,明治6年の政変で下野,板垣退助らと民撰議院設立建白書に署名した。一時元老院副議長に就任したが退官し,事業にかかわったが失敗。81年(明治14)自由党の創立に参画,翌年板垣を誘ってヨーロッパに渡り,帰国後87年伯爵。藩閥政府攻撃の大同団結運動を提唱して指導したが,政府の誘いに応じて89年黒田内閣の逓信相として入閣し運動を離脱した。以後農商相・朝鮮顧問などを歴任。
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[日本における沿革]
日本における洋紙生産は,旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に1872年(明治5)設立した有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月に製造したのが最初である。75年には,後藤象二郎らの経営する蓬萊社(後藤が製糖の目的で1872年設立)が大阪で製紙工場を開業し,東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で設立した三田製紙所が開業した。また1873年には渋沢栄一らが〈抄紙会社〉(のちの王子製紙)を設立し,苦心の末75年7月に操業を開始している。…
…幕末には幕府の外交や内治を批判し,あるいは庶民の困窮を訴えるはり紙がたびたび掲示された記録がある。明治維新後,本木昌造から鉄橋の利点を聞いた大阪府知事後藤象二郎は,1868年(明治1)イギリス商社と契約して橋の架替えに着手,1870年9月完工した。これは大阪最初の鉄橋であった。…
…上記の3件はそのために選ばれたスローガンであり,各地の有志者は元老院に対する建白書を携えて府県庁に押しかけ,また代表委員を上京させて元老院や政府高官の門をたたいた。10月に後藤象二郎が民権各派の連合を策して丁亥俱楽部を創設した前後から年末にかけて,建白運動は関東・東北から西南地方にまで広がり,東京には各地の有志者・壮士が結集して騒然たる空気が伝えられた。脅威を感じた政府は,12月26日保安条例を発して彼らを皇居から3里以遠に追放し,運動を鎮静した。…
…慶応期(1865‐68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。…
…その後,天保年間(1830‐44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。【依光 貫之】。…
※「後藤象二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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