後藤象二郎(読み)ゴトウショウジロウ

デジタル大辞泉 「後藤象二郎」の意味・読み・例文・類語

ごとう‐しょうじろう〔‐シヤウジラウ〕【後藤象二郎】

[1838~1897]政治家土佐の人。公武合体大政奉還運動に活躍。明治維新後は新政府に仕えたが、征韓論に敗れて下野。板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立建白書の提出に参画。のち、大同団結運動を提唱した。逓信相・農商務相を歴任。

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精選版 日本国語大辞典 「後藤象二郎」の意味・読み・例文・類語

ごとう‐しょうじろう【後藤象二郎】

  1. 政治家。伯爵。土佐藩高知県)出身。号は暘谷(ようこく)。藩主山内豊信に大政奉還の建白をすすめ、新政府の参議となる。明治六年(一八七三)の政変で辞職し、民撰議院設立建白書に参加。板垣退助と自由党を結成し、大同団結運動を指導する。のち逓相・農商務相を歴任。天保九~明治三〇年(一八三八‐九七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後藤象二郎」の意味・わかりやすい解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう
(1838―1897)

明治期の政治家。天保(てんぽう)9年3月19日、土佐国片町(高知市与力(よりき)町)に生まれる。父は土佐藩士後藤助右衛門、母は大塚氏。家格は馬廻(うままわり)320石。幼名保弥太(やすやた)、のちに良輔(りょうすけ)、さらに象二郎。号は暘谷(ようこく)。1863年(文久3)江戸に出て開成所に学ぶ。1865年(慶応1)大監察となり武市瑞山(たけちずいざん)らを裁く。1867年の土佐藩の大政返上建白運動を主導し、家老に昇進。1871年(明治4)左院議長。1873年参議。同年征韓論に敗れて辞任。翌年民撰(みんせん)議院設立建白書に署名、高島炭坑の経営に着手。1875年元老院副議長。1881年結成の自由党常議員。翌年井上馨(いのうえかおる)らとの密議により三井家から旅費を引き出し、板垣退助(いたがきたいすけ)と外遊。1887年5月9日伯爵。同年夏から政府の条約改正に反対する運動が台頭するや大同団結運動を唱導したが、1889年3月に運動を放棄して黒田清隆(くろだきよたか)内閣の逓信(ていしん)大臣に就任。1891年1月の第1回帝国議会が予算案をめぐって政府と民党が激突したとき、民党の切り崩しを画策し成功。第5回帝国議会において、経済界との癒着、官紀紊乱(びんらん)の攻撃を受け、1894年1月22日第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の農商務大臣を辞任し、政治生命は終わった。明治30年8月4日病死。正二位勲一等、旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)。墓は東京青山。

[外崎光廣]

『大町桂月著『伯爵後藤象二郎』(1914・冨山房)』『大橋昭夫著『後藤象二郎と近代日本』(1993・三一書房)』


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百科事典マイペディア 「後藤象二郎」の意味・わかりやすい解説

後藤象二郎【ごとうしょうじろう】

明治の政治家。土佐高知藩の出身。公議政体論を唱え前藩主山内豊信に大政奉還を建白させた。明治政府では参与,参議を歴任したが征韓論に敗れ,西郷隆盛,板垣退助とともに下野。副島種臣,江藤新平らと愛国公党を組織し民撰議院設立建白に参画,1881年板垣退助らと自由党を結成。1887年大同団結運動を起こしたが政府に買収された。1889年以降逓相,農商務相を歴任した。
→関連項目岩崎弥太郎海援隊黒田清隆内閣高知[県]高知藩薩土盟約自由民権福岡孝弟山内容堂吉田東洋

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朝日日本歴史人物事典 「後藤象二郎」の解説

後藤象二郎

没年:明治30.8.4(1897)
生年:天保9.3.19(1838.4.13)
幕末の土佐(高知)藩士,政治家。名は元曄,幼名保弥太,通称良輔。暘谷と号した。高知城下に生まれ,義叔父吉田東洋に訓育された。乾(板垣)退助とは竹馬の友。安政5(1858)年,参政(仕置役)吉田東洋に抜擢され郡奉行,普請奉行に任じた。文久2(1862)年武市瑞山一派による東洋暗殺事件後は藩の航海見習生として江戸に出て航海術,蘭学,英学などを学ぶなどして雌伏。翌3年,前藩主山内容堂(豊信)が7年ぶりに帰藩,藩論を元に復して勤王党粛清を実行すると,象二郎は大監察に就任,慶応1(1865)年,武市瑞山ら勤王党の罪状裁断の衝に当たった。吉田東洋の富国強兵路線を継承し,推進機関たる開成館を開設,開港場長崎に出張所を置き土佐の特産品樟脳の輸出を企て,自ら長崎に出張。このとき亀山社中を経営する脱藩浪士坂本竜馬と邂逅,坂本の論策である公議政体論・大政奉還論に賛同,容堂の強い支持を得,公議政体派として討幕派との鍔ぜり合いを演じたが,王政復古政変から鳥羽・伏見の戦に至り,討幕派に機先を制せられた。 新政府では参与,外国事務掛,総裁局顧問,御親征中軍監,大阪府知事,明治4(1871)年工部大輔,左院議長,6年4月参議を歴任したが,征韓論政変に敗れて下野した。7年1月,板垣退助らと民選議院設立建白を左院に提出するが却下された。このころ,蓬莱社を設立,政府からもらいうけた高島炭鉱を経営したが膨大な負債を抱えて,14年岩崎弥太郎に譲渡。西南戦争(1877)の際は政府と土佐立志社の間にあって複雑な行動をした。14年政変と国会開設の詔の煥発を契機に国会期成同盟系の民権諸派は自由党を創設,後藤は総理に推されたが板垣に譲った。15年板垣との外遊資金の出所をめぐる疑惑が起こり自由党の混乱を醸した。帰国後,朝鮮の政治改革を目指す運動を密かに企図したが失敗した。20年伯爵。同年反政府勢力の総結集を目指した大同団結運動を巻き起こし,機関誌『政論』を刊行するなどしたが,22年黒田清隆首相に誘われると逓信大臣に就任。以後山県有朋内閣,松方正義内閣と留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣。商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって27年1月辞職。晩年は病苦,失意のうちにあった。<参考文献>岩崎英重『後藤象二郎』,大町桂月『伯爵後藤象二郎伝』

(福地惇)

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改訂新版 世界大百科事典 「後藤象二郎」の意味・わかりやすい解説

後藤象二郎 (ごとうしょうじろう)
生没年:1838-97(天保9-明治30)

幕末・維新期および明治期の政治家。土佐藩士で馬廻(うままわり)格。父は助右衛門。良輔のち象二郎。義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが,東洋暗殺後は逆境にあった。藩論一変後の1864年(元治1)に大監察となり,藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて土佐勤王党を断罪,66年(慶応2)には参政として開成館事業を運営し,長崎,上海に赴くなどして藩の〈富国強兵〉につとめた。坂本竜馬と相知り,幕府の第2次征長失敗後,竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化することにつとめた。維新政府には参与として参画,東京遷都論を主張し,また板垣退助と土佐藩政改革を推進した。工部大輔,左院議長など歴任後,73年参議になったが,明治6年(1873)10月の政変で征韓論にやぶれて下野,板垣らと民撰議院設立建白書を左院に提出した。75年高島炭鉱の経営に乗り出したが失敗,同年に元老院議官となり,副議長をつとめたものの,翌年辞職した。81年,自由党結成に参加し,翌年の板垣との渡欧は,資金の出所(政府が自由党勢力弱体化を図るため,三井の資金で洋行させた)をめぐって問題となった。帰国後,朝鮮独立党の金玉均を支援したり,87年には政府の軟弱外交を非難して大同団結運動を指導したりしたが,89年,突如黒田清隆内閣に逓信大臣として入閣,以後,山県有朋,松方正義両内閣に留任,第2次伊藤博文内閣では農商務大臣となった。細節に拘泥せず,清濁併せ呑む東洋風の豪傑とも評されたが,三宅雪嶺をしていわしめれば,〈隠忍して首相職を拝するの機会を待ち,遂に果さず〉(《同時代史》第3巻)ということになる。伝記に大町桂月《伯爵後藤象二郎》(1914)がある。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「後藤象二郎」の解説

後藤 象二郎
ゴトウ ショウジロウ


生年月日
天保9年3月19日(1838年)

出身地
土佐国高知城下片町(高知県)

経歴
安政5年弱冠にて抜擢され土佐藩幡多郡奉行などを勤め、文久3年江戸に出て航海術、蘭学、英学を学んだ。元治元年土佐に帰り、大監察に任じ、藩主山内豊信(容堂)に登用されて藩政の中心となった。慶応2年長崎、上海に出張、3年坂本龍馬と会い啓発され、藩主に大政奉還を建白させこれを実現した。この間藩家老格となり、維新後新政府の参与に任じ、外国事務掛、同事務局判事、大阪府知事、工部大輔、左院議長、参議などを歴任。明治6年征韓論に敗れて辞職。7年板垣退助らと愛国党を組織、民選議院設立建白書を提出。8年元老院議官となったが再び辞職、一時高島炭坑を経営して失敗、岩崎弥太郎に譲渡。14年板垣の自由党結成に参加、弾圧を避けて15年板垣と洋行。16年帰国、朝鮮独立党を援助したが失敗。20年条約改正反対運動統一を呼びかけ大同団結運動を提唱したが、保安条例による運動への弾圧を受けて同志を裏切り、22年黒田清隆内閣の逓相となった。その後23年山県有朋、24年松方正義両内閣の逓相、25年2次伊藤博文内閣農商務相となり、取引所設置の醜聞で27年辞任した。20年に伯爵に叙せられ、22年勲一等旭日大綬章受章。

受賞
勲一等旭日大綬章

没年月日
明治30年8月4日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「後藤象二郎」の解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう

1838.3.19~97.8.4

幕末~明治期の高知藩士・政治家。藩主山内豊信(とよしげ)を補佐し,1867年(慶応3)坂本竜馬の意見に賛同して大政奉還運動に挺身,実現させた。明治政府に参与兼外国官事務掛として出仕,以後工部大輔・左院議長・参議を務めたが,明治6年の政変で下野,板垣退助らと民撰議院設立建白書に署名した。一時元老院副議長に就任したが退官し,事業にかかわったが失敗。81年(明治14)自由党の創立に参画,翌年板垣を誘ってヨーロッパに渡り,帰国後87年伯爵。藩閥政府攻撃の大同団結運動を提唱して指導したが,政府の誘いに応じて89年黒田内閣の逓信相として入閣し運動を離脱した。以後農商相・朝鮮顧問などを歴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤象二郎」の解説

後藤象二郎 ごとう-しょうじろう

1838-1897 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)9年3月19日生まれ。土佐高知藩士。前藩主山内豊信(とよしげ)を説得し,大政奉還の建白書を幕府に提出。新政府の参議などを歴任するが,明治6年征韓論争に敗れて辞任。14年板垣退助らと自由党を結成。反政府大同団結運動をおこなうが,のち政府に協力し,逓信相,農商務相などをつとめた。伯爵。明治30年8月4日死去。60歳。幼名は保弥太。通称は良輔。号は暘谷。

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旺文社日本史事典 三訂版 「後藤象二郎」の解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう

1838〜97
明治時代の政治家
土佐藩出身。坂本竜馬の影響をうけて列侯会議論を唱え,徳川慶喜 (よしのぶ) の大政奉還に重要な役割を演じた。1873年征韓論に敗れて下野,翌'74年板垣退助らと民撰議院設立を建白。'81年自由党の結成に加わり,翌年政府の懐柔により板垣と外遊,世間の批判をうけた。'87年大同団結運動をおこしたが,政府と妥協し黒田清隆内閣の逓相('89年)となり,運動の分裂を招いた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後藤象二郎」の意味・わかりやすい解説

後藤象二郎
ごとうしょうじろう

[生]天保9(1838).3.19. 土佐
[没]1897.8.4. 東京
政治家。明治維新における徳川慶喜の大政奉還,自由民権運動末期の大同団結運動に大きな役割を果した。 1889~92年逓信大臣,92~94年農商務大臣をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の後藤象二郎の言及

【紙・パルプ工業】より


[日本における沿革]
 日本における洋紙生産は,旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に1872年(明治5)設立した有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月に製造したのが最初である。75年には,後藤象二郎らの経営する蓬萊社(後藤が製糖の目的で1872年設立)が大阪で製紙工場を開業し,東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で設立した三田製紙所が開業した。また1873年には渋沢栄一らが〈抄紙会社〉(のちの王子製紙)を設立し,苦心の末75年7月に操業を開始している。…

【高麗橋】より

…幕末には幕府の外交や内治を批判し,あるいは庶民の困窮を訴えるはり紙がたびたび掲示された記録がある。明治維新後,本木昌造から鉄橋の利点を聞いた大阪府知事後藤象二郎は,1868年(明治1)イギリス商社と契約して橋の架替えに着手,1870年9月完工した。これは大阪最初の鉄橋であった。…

【三大事件建白運動】より

…上記の3件はそのために選ばれたスローガンであり,各地の有志者は元老院に対する建白書を携えて府県庁に押しかけ,また代表委員を上京させて元老院や政府高官の門をたたいた。10月に後藤象二郎が民権各派の連合を策して丁亥俱楽部を創設した前後から年末にかけて,建白運動は関東・東北から西南地方にまで広がり,東京には各地の有志者・壮士が結集して騒然たる空気が伝えられた。脅威を感じた政府は,12月26日保安条例を発して彼らを皇居から3里以遠に追放し,運動を鎮静した。…

【大政奉還】より

…慶応期(1865‐68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。…

【土佐藩】より

…その後,天保年間(1830‐44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。【依光 貫之】。…

※「後藤象二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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