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明治・大正期の自由民権運動家、政治家。嘉永(かえい)2年7月7日、三春(みはる)藩(福島県)の家に生まれる。号は磐州(ばんしゅう)。早くから政治に関心を示し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)時には藩論を討幕派へ導くため奔走、新政権成立後は若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉(ときわ)の戸長、石川の区長を務めた。戸・区長在職中ミルの思想などに啓発され、民会の開設や政治結社石陽社(せきようしゃ)の創設に尽力、おりから澎湃(ほうはい)として起こった自由民権運動に加わり、1880年(明治13)には国会開設上願書の捧呈(ほうてい)委員に選ばれるなど、やがて運動の全国的な指導者となった。一方、1881年4月には弱冠31歳で福島県会の議長につき、地方自治の確立のため奮闘した。そのため翌1882年専制的官治的行政を推し進める県令三島通庸(みしまみちつね)と激しく衝突して捕縛され、国事犯として軽禁獄7年に処せられた(福島事件)。1889年憲法発布の大赦により出獄し、翌年の第1回総選挙に当選して以後14回連続当選。この間1903年(明治36)衆議院議長、1915年(大正4)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の農商務大臣を歴任した。議長時代、勅語奉答に託して行った桂太郎(かつらたろう)内閣弾劾は「勅語奉答文事件」として有名。1897年創立以来深くかかわっていた自由党を離党してのちたびたび所属政党を変えたため、政治節操を疑われたりしたが、民権運動期に培った「普選」の理念は一貫して失わず、その実現を目ざして活躍した。大正12年12月29日、議員在職中没。墓は東京の護国寺。
[安在邦夫]
『『河野磐州伝』上下(1923・同書刊行会)』
明治・大正期の政治家。号は磐州。出身は陸奥国三春藩(福島県)の郷士で,家は呉服太物商,魚問屋,酒造業を営む豪商。戊辰戦争の際,新政府軍を支援して板垣退助を知る。若松県・三春藩の下級官吏を経て,1873年磐前県副戸長となり,このころミル著・中村正直訳《自由之理》を馬上で読んで発奮,自由民権論者になったという。以後区長などを務めつつ,75年政治結社石陽社を,ついで78年三師社を郷里に組織して,東北地方の自由民権運動の指導者となった。こうした活動を背景に愛国社・国会期成同盟の運動に参加し,豪農層を代表する幹部となった。80年片岡健吉とともに国会開設を求める請願書を政府に提出し,翌年自由党の結成に参加。82年福島県会議長として県令三島通庸の暴政と対決し,福島事件で弾圧をうけて軽禁獄7年の判決をうけた。89年大赦により出獄し,翌年の第1回衆議院議員選挙以来連続当選14回。伊藤博文に接近し,第2次伊藤内閣では政府と自由党との提携を成立させた。97年憲政党分裂とともに自由党を脱党し,翌年憲政本党に加わる。1903年衆議院議長。05年の日比谷焼打事件では兇徒聚衆罪で投獄された。13年立憲同志会に入り,翌年第2次大隈重信内閣の農商務相に就任。《河野磐州伝》全2巻(1923)がある。
執筆者:大日方 純夫
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(長井純市)
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明治・大正期の政治家,自由民権運動家 衆院議長;農商務相。
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1849.7.7~1923.12.29
明治・大正期の自由民権運動家・政党政治家。号は磐州。陸奥国三春藩の郷士の家に生まれる。J.S.ミルの「自由之理(じゆうのことわり)」に啓発されて自由民権思想に目覚め,民会や石陽社など政社の創設に尽力,福島自由党の指導者として活動。中央でも民権運動の指導者として活躍し,1880年(明治13)国会期成同盟を代表して政府に国会開設の願望書を提出。福島県会議長を務めていた82年,県令三島通庸(みちつね)と対立,福島・喜多方事件に連坐し国事犯として入獄。89年出獄後,衆議院議員に当選。のち衆議院議長や農商務相を務めた。
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…1880年3月大阪で開かれた愛国社第4回大会には,愛国社加盟の各結社のほか多数の全国有志が参加して,組織を国会期成同盟と称することや請願書の提出を議決し,国会期成同盟規約を決定した。翌4月,片岡健吉,河野広中が全国2府22県約9万7000名の請願委託者を代表して〈国会を開設するの允可を上願する書〉を提出した。この請願書は,120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の中でも,9項目の請願理由を列挙した詳細なもので,その根拠が,天賦の人権,五ヵ条の誓文の国是,兵役ならびに地租負担者の権利,内政および財政の混乱,国権回復など広範にわたっていたことを示している。…
…党指導部の中核は板垣を中心とする土佐派,とくに立志社系の民権家たちであった。それに加えて愛国社の活動や国会開設運動を通じて,全国的に有名になった河野広中ら,地方の有力な政治家たちも幹部を構成した。さらに,彼らの傘下にあった地方民権結社とそこに結集した士族や豪農,地主などの地方有力者たちが,自由党の支持基盤を形成している。…
…政府は治安警察法によって大会を禁止したが,会場周辺には数万の民衆がつめかけ,警官隊と衝突して公園内になだれ込んだ。大会幹部は開会を宣言し,憲政本党の河野広中が座長をつとめ〈講和条約破棄決議〉〈満州各軍に打電すべき決議〉〈枢密顧問官に対する決議〉を採択し約30分で終わった。散会後民衆は自然発生的に暴動化した。…
…1892年東洋自由党の党内組織として普通選挙期成同盟会が設立されたが,継続的な運動としては97年,松本に中村太八郎,木下尚江らにより同名の組織が結成されたことに始まる。同盟会は99年東京に進出し,翌年1月第14議会に請願書を提出,1902年第16議会で河野広中,花井卓蔵らの名で法案を提出した。同盟会は当初民権運動の残党と新進の言論人を主力として出発したが,幸徳秋水,片山潜ら社会主義協会や労働組合期成会のメンバーが参加し,《万朝報》《二六新報》などの有力紙も後援し,反藩閥専制の統一戦線組織の役割を果たした。…
※「河野広中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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