河野広中(読み)コウノヒロナカ

デジタル大辞泉 「河野広中」の意味・読み・例文・類語

こうの‐ひろなか〔かうの‐〕【河野広中】

[1849~1923]政治家三春みはる藩出身。自由民権運動を指導、福島事件で投獄された。のち衆議院議長・農商務相を歴任。

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精選版 日本国語大辞典 「河野広中」の意味・読み・例文・類語

こうの‐ひろなか【河野広中】

  1. 政治家。号磐州。陸奥藩(福島県)三春出身。自由党に入り、県議会議長として福島事件に連座し入獄。明治二三年(一八九〇)第一回衆議院選挙以来一四回連続当選し、憲政本党憲政会などの幹部として活躍する。その間、衆議院議長、第二次大隈内閣の農商務相を歴任。嘉永二~大正一二年(一八四九‐一九二三

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百科事典マイペディア 「河野広中」の意味・わかりやすい解説

河野広中【こうのひろなか】

明治・大正の政治家。磐州(ばんしゅう)と号す。陸奥(むつ)三春(みはる)藩の郷士身分をもつ商家の出身。戊辰戦争では新政府軍を支持,板垣退助を知る。若松県三春藩などの下級官吏を経て区長を務め,1875年石陽社,1878年三師社を組織して東北の自由民権運動を指導,また愛国社国会期成同盟の幹部として国会開設請願運動に活躍。1881年自由党に入り,同年福島県会議長となる。1882年県令三島通庸と衝突,福島事件に連座し入獄。出獄後第1回以来連続14回衆議院議員に当選。伊藤博文と交わり,1897年自由党を脱党,翌年憲政本党の結成に参加。1903年衆議院議長,1905年日露講和に反対し日比谷焼打事件で入獄。1914年大隈重信内閣の農商務相。加波山事件河野広躰(ひろみ)は彼の甥(おい)。
→関連項目普通選挙期成同盟会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河野広中」の意味・わかりやすい解説

河野広中
こうのひろなか

[生]嘉永2(1849).7.7. 福島
[没]1923.12.29. 東京
明治,大正期の自由民権運動家,政治家。慶応4 (1868) 年の戊辰戦争には討幕軍に従軍,討幕軍参謀板垣退助を助けた。維新後,若松県に出仕し,のち磐前県副戸長となったが,この頃民権論者となる。その後石陽社,三師社などの政治結社を組織。のち全国的自由民権運動組織である愛国社に参加した。 1880年国会期成同盟 (愛国社) の請願書奉呈委員に選ばれ,同年片岡健吉とともに政府に国会開設意見書を提出するが,受理されず,同盟内急進派の植木枝盛らとともに,81年自由党を結成した。同年福島県会議長に就任したが,翌 82年福島県令に着任した三島通庸と対立,いわゆる福島事件を引起した。高等法院で内乱予備罪に問われ,軽禁獄7年の判決を受けたが,89年憲法発布に際しての大赦で出獄。同年大同倶楽部設立。その後第1回総選挙には福島県から出馬,衆議院議員に当選し,以来 14回連続当選。この間,自由党を離脱し,憲政本党に加わり,1903年には衆議院議長に就任したが,第 19議会開院式で朗読した奉答文中に政府を弾劾する内容があり,議会は解散となった (奉答文事件) 。 05年対露強硬論を唱え,日比谷焼打ち事件に連座して投獄されたが,翌年証拠不十分で無罪となった。 13年桂太郎立憲同志会に走り,翌 14年第2次大隈内閣では農商務相に就任。 16年同退任後,憲政会設立に参加。顧問に就任し普通選挙運動に尽力した。伝記に『河野磐州伝』がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河野広中」の意味・わかりやすい解説

河野広中
こうのひろなか
(1849―1923)

明治・大正期の自由民権運動家、政治家。嘉永(かえい)2年7月7日、三春(みはる)藩(福島県)の家に生まれる。号は磐州(ばんしゅう)。早くから政治に関心を示し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)時には藩論を討幕派へ導くため奔走、新政権成立後は若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉(ときわ)の戸長、石川の区長を務めた。戸・区長在職中ミルの思想などに啓発され、民会の開設や政治結社石陽社(せきようしゃ)の創設に尽力、おりから澎湃(ほうはい)として起こった自由民権運動に加わり、1880年(明治13)には国会開設上願書の捧呈(ほうてい)委員に選ばれるなど、やがて運動の全国的な指導者となった。一方、1881年4月には弱冠31歳で福島県会の議長につき、地方自治の確立のため奮闘した。そのため翌1882年専制的官治的行政を推し進める県令三島通庸(みしまみちつね)と激しく衝突して捕縛され、国事犯として軽禁獄7年に処せられた(福島事件)。1889年憲法発布の大赦により出獄し、翌年の第1回総選挙に当選して以後14回連続当選。この間1903年(明治36)衆議院議長、1915年(大正4)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の農商務大臣を歴任した。議長時代、勅語奉答に託して行った桂太郎(かつらたろう)内閣弾劾は「勅語奉答文事件」として有名。1897年創立以来深くかかわっていた自由党を離党してのちたびたび所属政党を変えたため、政治節操を疑われたりしたが、民権運動期に培った「普選」の理念は一貫して失わず、その実現を目ざして活躍した。大正12年12月29日、議員在職中没。墓は東京の護国寺

[安在邦夫]

『『河野磐州伝』上下(1923・同書刊行会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「河野広中」の意味・わかりやすい解説

河野広中 (こうのひろなか)
生没年:1849-1923(嘉永2-大正12)

明治・大正期の政治家。号は磐州。出身は陸奥国三春藩(福島県)の郷士で,家は呉服太物商,魚問屋,酒造業を営む豪商。戊辰戦争の際,新政府軍を支援して板垣退助を知る。若松県・三春藩の下級官吏を経て,1873年磐前県副戸長となり,このころミル著・中村正直訳《自由之理》を馬上で読んで発奮,自由民権論者になったという。以後区長などを務めつつ,75年政治結社石陽社を,ついで78年三師社を郷里に組織して,東北地方の自由民権運動の指導者となった。こうした活動を背景に愛国社・国会期成同盟の運動に参加し,豪農層を代表する幹部となった。80年片岡健吉とともに国会開設を求める請願書を政府に提出し,翌年自由党の結成に参加。82年福島県会議長として県令三島通庸の暴政と対決し,福島事件弾圧をうけて軽禁獄7年の判決をうけた。89年大赦により出獄し,翌年の第1回衆議院議員選挙以来連続当選14回。伊藤博文に接近し,第2次伊藤内閣では政府と自由党との提携を成立させた。97年憲政党分裂とともに自由党を脱党し,翌年憲政本党に加わる。1903年衆議院議長。05年の日比谷焼打事件では兇徒聚衆罪で投獄された。13年立憲同志会に入り,翌年第2次大隈重信内閣の農商務相に就任。《河野磐州伝》全2巻(1923)がある。
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朝日日本歴史人物事典 「河野広中」の解説

河野広中

没年:大正12.12.29(1923)
生年:嘉永2.7.7(1849.8.24)
明治大正期の政党政治家。父は磐城国三春藩(福島県三春市)郷士河野広可,母はリヨ子。号は磐州。幕末に儒家川前紫渓に師事し尊攘論を唱えた。奥羽越列藩同盟に同調する藩論を転換させるため同志と共に奔走し,新政府軍の参謀板垣退助と会見し,藩を新政府に帰順させ,土佐藩兵と共に二本松,会津両藩への攻撃に参加した。これによりその後長い間,二本松,会津両藩人士は三春藩に怨恨を抱き続けた。維新後,若松県(福島県)官吏を勤めている間に中村正直訳・J.S.ミル『自由之理』を読み自由民権思想に目覚めた。明治8(1875)年福島県石川町に石陽社,10年三春に三師社を設立,東北地方の自由民権運動の先駆となった。その後,自由党結成に参加し幹部として活躍する一方,福島県会議長として,強引な道路建設を進める県令三島通庸と対立し福島事件(1882)を起こしている。国事犯として逮捕,収監されたが,大日本帝国憲法発布(1889)の恩赦により出獄。大同団結運動を経て,初期議会では自由党院内総理として院外団の発言力を低下させ,また東北派の領袖として党を主導したが,関東派の領袖星亨 と対立し30年脱党。翌年憲政党,さらに憲政本党に所属し対外硬派の立場に立った。日露戦後のポーツマス講和条約に反対し日比谷焼打ち事件(1905)で検挙される(無罪)。大正4(1915)年第2次大隈重信内閣に山県有朋の後援を得て農商務大臣として入閣。政治家としては藩閥政治家との水面下の接触や議会での目立つ行動などに巧妙であった。<参考文献>河野磐州伝編纂会編『河野磐州伝』

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「河野広中」の解説

河野 広中
コウノ ヒロナカ


肩書
衆院議長,農商務相

別名
号=河野 磐州

生年月日
嘉永2年7月7日(1849年)

出生地
磐城国田村郡三春(福島県三春町)

経歴
幕末の戊辰戦争で三春藩を官軍支持にまとめ官軍参謀の板垣退助を知った。維新後、若松県官吏。明治8年福島に政治結社・石陽社を結成、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる。その後、自由党結成に参加し幹部として活躍。13年国会開設の請願書を政府に提出。一方、14年福島県会議長となり、翌年着任した県令三島通庸と対立、福島事件に連座、下獄。22年出獄、翌年第1回衆院議員選に出馬、以後14回当選。30年自由党を脱党、憲政本党入り。35年衆院議長。38年日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄され、翌年釈放。大正4年第2次大隈内閣の農商務相となる。

没年月日
大正12年12月29日

家族
孫=河野 守宏(評論家)

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20世紀日本人名事典 「河野広中」の解説

河野 広中
コウノ ヒロナカ

明治・大正期の政治家,自由民権運動家 衆院議長;農商務相。



生年
嘉永2年7月7日(1849年)

没年
大正12(1923)年12月29日

出生地
磐城国田村郡三春(福島県三春町)

別名
号=河野 磐州

経歴
幕末の戊辰戦争で三春藩を官軍支持にまとめ官軍参謀の板垣退助を知った。維新後、若松県官吏。明治8年福島に政治結社・石陽社を結成、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる。その後、自由党結成に参加し幹部として活躍。13年国会開設の請願書を政府に提出。一方、14年福島県会議長となり、翌年着任した県令三島通庸と対立、福島事件に連座、下獄。22年出獄、翌年第1回衆院議員選に出馬、以後14回当選。30年自由党を脱党、憲政本党入り。35年衆院議長。38年日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄され、翌年釈放。大正4年第2次大隈内閣の農商務相となる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「河野広中」の解説

河野広中
こうのひろなか

1849.7.7~1923.12.29

明治・大正期の自由民権運動家・政党政治家。号は磐州。陸奥国三春藩の郷士の家に生まれる。J.S.ミルの「自由之理(じゆうのことわり)」に啓発されて自由民権思想に目覚め,民会や石陽社など政社の創設に尽力,福島自由党の指導者として活動。中央でも民権運動の指導者として活躍し,1880年(明治13)国会期成同盟を代表して政府に国会開設の願望書を提出。福島県会議長を務めていた82年,県令三島通庸(みちつね)と対立,福島・喜多方事件に連坐し国事犯として入獄。89年出獄後,衆議院議員に当選。のち衆議院議長や農商務相を務めた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河野広中」の解説

河野広中 こうの-ひろなか

1849-1923 明治-大正時代の政治家。
嘉永(かえい)2年7月7日生まれ。政治結社石陽社,三師社を設立して自由民権運動にくわわり,自由党のリーダーとなる。福島県会議長として県令三島通庸(みちつね)と対決,福島事件で投獄された。明治23年衆議院議員(当選14回)。憲政本党にうつり,36年衆議院議長。立憲同志会にはいって第2次大隈(おおくま)内閣の農商務相。大正12年12月29日死去。75歳。陸奥(むつ)田村郡(福島県)出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「河野広中」の解説

河野広中
こうのひろなか

1849〜1923
明治・大正時代の政治家
陸奥(福島県)三春藩の郷士出身。自由民権運動に投じ,国会期成同盟・自由党の幹部として活躍。福島事件の主謀者として入獄。出獄後,代議士に第1回選挙以来連続14回当選し,その間衆議院議長・農商務相・憲政会幹部などを歴任した。

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367日誕生日大事典 「河野広中」の解説

河野 広中 (こうの ひろなか)

生年月日:1849年7月7日
明治時代;大正時代の政治家。衆議院議長;農商務大臣
1923年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の河野広中の言及

【国会期成同盟】より

…1880年3月大阪で開かれた愛国社第4回大会には,愛国社加盟の各結社のほか多数の全国有志が参加して,組織を国会期成同盟と称することや請願書の提出を議決し,国会期成同盟規約を決定した。翌4月,片岡健吉,河野広中が全国2府22県約9万7000名の請願委託者を代表して〈国会を開設するの允可を上願する書〉を提出した。この請願書は,120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の中でも,9項目の請願理由を列挙した詳細なもので,その根拠が,天賦の人権,五ヵ条の誓文の国是,兵役ならびに地租負担者の権利,内政および財政の混乱,国権回復など広範にわたっていたことを示している。…

【自由党】より

…党指導部の中核は板垣を中心とする土佐派,とくに立志社系の民権家たちであった。それに加えて愛国社の活動や国会開設運動を通じて,全国的に有名になった河野広中ら,地方の有力な政治家たちも幹部を構成した。さらに,彼らの傘下にあった地方民権結社とそこに結集した士族や豪農,地主などの地方有力者たちが,自由党の支持基盤を形成している。…

【日比谷焼打事件】より

…政府は治安警察法によって大会を禁止したが,会場周辺には数万の民衆がつめかけ,警官隊と衝突して公園内になだれ込んだ。大会幹部は開会を宣言し,憲政本党の河野広中が座長をつとめ〈講和条約破棄決議〉〈満州各軍に打電すべき決議〉〈枢密顧問官に対する決議〉を採択し約30分で終わった。散会後民衆は自然発生的に暴動化した。…

【普選運動】より

…1892年東洋自由党の党内組織として普通選挙期成同盟会が設立されたが,継続的な運動としては97年,松本に中村太八郎,木下尚江らにより同名の組織が結成されたことに始まる。同盟会は99年東京に進出し,翌年1月第14議会に請願書を提出,1902年第16議会で河野広中,花井卓蔵らの名で法案を提出した。同盟会は当初民権運動の残党と新進の言論人を主力として出発したが,幸徳秋水,片山潜ら社会主義協会や労働組合期成会のメンバーが参加し,《万朝報》《二六新報》などの有力紙も後援し,反藩閥専制の統一戦線組織の役割を果たした。…

※「河野広中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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