大善寺跡(読み)だいぜんじあと

日本歴史地名大系 「大善寺跡」の解説

大善寺跡
だいぜんじあと

[現在地名]久留米市大善寺町宮本

西小路にしこうじにあった玉垂たまたれ宮の神宮寺。御船山と号し、天台宗。近世末まで大善寺玉垂宮と称し玉垂宮と一体であったが、明治二年(一八六九)廃寺となった。玉垂宮の社伝によると、僧安泰によって高良玉垂宮の神宮寺として創建された高法こうほう寺が、弘仁五年(八一四)三池郡司三毛師直により造営され、御船山大善寺に改称したという。「太宰管内志」によると大善寺は玉垂宮に仕える坊中一山の総称で、本坊は南向きで玉垂宮の後ろにあった。初め法相宗であったが、延暦(七八二―八〇六)頃に天台宗となり、比叡山末となる。古く座主職は東林とうりん坊であったが絶え、本坊のほか一乗院・寿正院・寛喜院・善住院・智教院・涼珠院・円乗院の七坊が残るとある。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)によると、大善寺玉垂宮には本定額一五口、新定額として最勝講一〇口・仁王講一三口・理趣分一口・薬師経一口・金剛般若五口・「金光明経三口」・観音経一口・寿命経一口の定額僧が置かれ、当住以外に背振せふり山・柳坂やなぎさか高良こうら山の僧侶が補任された。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)に大善寺および玉垂宮の祭礼とその課役を負担する村々が書上げられている。貞和三年(一三四七)九月二二日の高良玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)によると、寺家知行分の定額田が犬墓いぬづか村・清松きよまつ村・高三潴たかみづま村・西牟田にしむた(現三潴町)荒木あらき村・白口しらくち村・藤吉ふじよし村・夜明よあけ村、木佐木きさき村・津村つむら村・諸富もろどみ(現大川市)蒲池かまち村・間之はさまの(現柳川市)高屋たかや(現筑後市)恒武村・聖空閑(比定地未詳)の一六ヵ村に二五町三段あり、ほかに寺家分として九町三丈の免田があった。


大善寺跡
だいぜんじあと

[現在地名]須崎市池ノ内

しろ山の西麓、字大善寺にあった須崎八幡宮別当寺。真言宗和州長谷寺小池坊の末で、八幡山明星院と号し、江戸時代末には末寺一七ヵ寺を擁する大寺院であった(南路志)。明治四年(一八七一)廃寺となり、跡地墓地となっている。

吾川あがわ伊野いの椙本すぎもと神社にあった鰐口の文明一九年(一四八七)の銘(古文叢)に「洲崎大善寺大檀那刀禰夜叉丸文明丁未五月日院主快道」とあり、当時は須崎にあって、おそらく須崎の豪商庇護を受けて発展したと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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