池ノ内村(読み)いけのうちむら

日本歴史地名大系 「池ノ内村」の解説

池ノ内村
いけのうちむら

[現在地名]三芳村池之内いけのうち

御庄みしよう村の西に位置する。北東部に平松ひらまつ城跡があり、木戸きど姫が井ひめがい松葉井まつばい御園みそのなどの地名が残る。源頼朝に仕えた安西景益居城というが(房総志料続篇)、安西氏は里見氏の家臣。西部に箕輪みのわ、北部に経塚きようづかの地名がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録の山下やまもと郡内に里見氏直轄領として池之内村とみえ、高二九一石余(うち田二三四石余)。同一五年の里見家分限帳では足軽大頭安田分とある。元和四年(一六一八)九月の山下郡池之内村検地帳が五冊伝えられていた(古検地帳目録)


池ノ内村
いけのうちむら

[現在地名]伊野町池の内

バーガ森(一四五・三メートル)東南に位置する。奥田おくだ川の最上流域にあたり、丘陵に囲まれた小盆地である。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は池之内村として「東西二十町余南北三十町余、戸凡二十余、其土赤黒」と記す。中世朝倉あさくら庄に含まれたと考えられ、当地天満宮の大永七年(一五二七)三月三日付の棟札(古文叢)に「朝倉庄池内天神社」とある。


池ノ内村
いけのうちむら

[現在地名]須崎市池ノ内・西糺にしただす町・いずみ

東のしろ山と西の五紋中ごもんちゆう山に挟まれた平地の村。古く城山と五紋中山付近は海水が奥深く入込んでいたため小半島状を呈していたが、新荘しんじよう川の流砂が沿岸潮流や風波によって運ばれて砂洲を形成、砂洲でふさがれた池が残ったので池ノ内と称するようになったという。

中世は京都下鴨神社領津野つの新庄に含まれた。津野新庄は正安三年(一三〇一)に下地中分され、この時の和与状(「賀茂御祖皇大神宮諸国神戸記」所収)に「一池内 田畠山在家」とみえる。この中分により当地は領家分である上分かみぶんの飛地となった。天正一五年(一五八七)の検地でも上分郷に含まれ、津野上分郷地検帳によると村域の地積一六町四反余、ヤシキ二二筆で、山内与十良ら四人の在地給人がいた。


池ノ内村
いけのうちむら

[現在地名]御所市大字池之内いけのうち

葛城川東方に所在。北は玉手たまで村。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「池内南庄 葛上郡寺門反畝八反」とある。慶長郷帳では村高九七四・二石、新庄藩(桑山一晴)領。


池ノ内村
いけのうちむら

[現在地名]桜井市大字池之内いけのうち

橋本はしもと村南方に所在。磐余いわれ池跡と伝承。慶長郷帳には「池之内村」とあり旗本秋山右近領。村高四二六・六二石は文禄検地と同じ。検地奉行は御牧景則。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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