大垣城跡(読み)おおがきじようあと

日本歴史地名大系 「大垣城跡」の解説

大垣城跡
おおがきじようあと

[現在地名]大垣市郭町・郭町東・御殿町・丸の内・高砂町

大垣市の市街地中央部、牛屋うしや川流域の平坦地に位置する。畿内と東国を結ぶ交通・軍事面などの要衝の地にある平山城。大柿城とも記す。享保城下絵図によれば、内堀内部の北に本丸、南に二の丸があり、中堀内の南に三の丸、西に竹の丸、東に天神丸・袋丸、外堀内の南に松の丸、その他に士屋敷が広がる。郭内と城外は、東の大手おおて口・小橋こばし口、南のみなみ口・やなぎ口、西の清水しみず口・竹橋たけばし口、北のたつ(竜)ノ口の七口で結ばれた。大手口・南口には枡形があり、天守閣は本丸の北西角に位置した(正徳五年「大垣城郭図」大垣市立図書館蔵)

〔近世初頭の大垣城〕

当城の創設には諸説あるが、「竹腰家旧記」によると、明応九年(一五〇〇)竹腰彦五郎尚綱が牛屋郷に城を築いて三九年間居城。天文七年(一五三八)から甥の摂津守重直が在城したが、同一三年織田信秀に攻められ落城。当時、牛屋郷の名をとって牛屋の城といったという。「美濃明細記」「大垣城主歴代記」などは、中世の当地は東大寺領大井おおい庄の庄域で、その代官大垣氏が「牛屋東大寺の砦」に住し、天文年間初めに宮川安定が舅の彦五郎を討ち、安八あんぱち青柳あおやぎ村にあった空城の門や石垣を運んで同四年に城郭を構え、大垣城・大柿城とよぶようになったとする。天文一二年一〇月一〇日の大井庄年貢結解状(東南院文書)に「七百五十文 七月三日ヨリ十七日迄之在庄銭、大カキノ城」とみえる。応仁元年(一四六七)のものと思われる守護土岐成頼感状(大垣市立図書館蔵)に、「東大寺城」とみえるのが、大垣城の前身かもしれない(新修大垣市史)。戦国時代、大垣城には竹腰氏・宮川氏・氏家氏が在城したとされ、なかでも、元亀二年(一五七一)に伊勢長島一向一揆と戦い戦死した氏家卜全(直元)の名は著名である。天正一〇年(一五八二)本能寺の変後の混乱のなかで、パードレ・グレゴリオは大垣のチオネという者の所にいたが、チオネが賢明であったので、大垣だけは平和であったという(日本耶蘇会年報)。しかし、同年一一月には羽柴秀吉の軍勢が大垣城に入り、岐阜の織田信孝攻めの拠点となった(「賤嶽合戦記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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