無産政党(読み)ムサンセイトウ

デジタル大辞泉 「無産政党」の意味・読み・例文・類語

むさん‐せいとう〔‐セイタウ〕【無産政党】

労働者や貧農など無産階級の利益や意思を代表する政党。

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精選版 日本国語大辞典 「無産政党」の意味・読み・例文・類語

むさん‐せいとう‥セイタウ【無産政党】

  1. 〘 名詞 〙 無産階級の利益を代表する政党。無産党
    1. [初出の実例]「無産政党の最初のものは、共産主義系分子の混入が理由で解党させられた」(出典:共産主義党派文芸を評す(1927)〈新居格〉一)

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改訂新版 世界大百科事典 「無産政党」の意味・わかりやすい解説

無産政党 (むさんせいとう)

戦前日本の合法的な社会主義政党および社会民主主義政党の総称で,日本共産党は含まない。1918年の米騒動以後民衆諸階層の組織化が進んだが,20年ごろから労働者階級とその他被支配階級を全体として無産階級という言い方が一般化した。

1922年に発表された共産党の指導者山川均の論文《無産階級運動の方向転換》は,日本の革命運動の大衆化とともに,民衆運動の政治闘争化をめざしたものである。23年山本権兵衛内閣の普選実施声明によって無産政党の組織化は現実の政治課題となり,日本労働総同盟(総同盟),日本農民組合(日農)はその具体的検討に着手,また24年嶋中雄三,鈴木茂三郎大山郁夫高橋亀吉など知識層を主体に結成された政治研究会は政党の綱領・規約を研究,機関誌《政治研究》を発行した。この間,山川が提唱した単一協同戦線党論は無産政党組織化に大きな影響を与えたが,25年の総同盟分裂,日本労働組合評議会(評議会)結成にあらわれた労働運動の左右対立は,政党結成の主導権争いを激化させた。同年8月日農の提唱で,無産政党組織準備委員会が結成されたが,準備委は左右の対立で難航し,ようやく12月総同盟,評議会を除くなどして農民労働党(書記長浅沼稲次郎)が結成された。しかし政府は,治安警察法によって即日結社を禁止した。再組織活動では総同盟の強い主張で評議会など左派4団体が排除され,26年3月労働農民党労農党)(委員長杉山元治郎)が結成された。左派の門戸開放運動が起こり,党内でも日農がこれに同調すると総同盟など右派は同年10月脱党し,この結果同党は左派を加えて12月の第1回大会で左翼政党として再出発することになった(委員長大山郁夫)。以後同党は共産党の事実上の指導下にある合法政党として,また左翼社会民主主義者と共産主義者の統一戦線的政党として,弾圧にさらされながら戦闘的活動を展開した。

 労農党脱退派から二つの党が生まれた。総同盟主流派などは独立労働協会の安部磯雄,吉野作造らと12月,社会民衆党社民党,委員長安部)を結成した。同党は日本の右翼社会民主主義政党の源流となったが,活動は概して低調であった。他方,総同盟主流派のかたくなな反共主義に不満の麻生久らは,日農の須永好,三宅正一らとはかり,日本労農党(書記長三輪寿壮)を結成,左右両翼を排する中間派社会民主主義政党の出発点となった。これに伴い総同盟第2次分裂,日農の分裂が起こったが,政党分裂が大衆団体の分裂を引き起こすという日本の民衆運動の悪しき伝統が,この時期に形づくられた。28年2月の普選後初の総選挙で無産政党は全体で49万票(得票率5%),当選8人を得て初めて国会に進出した。

 選挙後三・一五事件がおこり,4月労農党は評議会などとともに解散させられた。新党組織準備会が結成され,12月労働者農民党結成大会が開かれたが,コミンテルン第6回大会の大衆政党否定の方針にも災いされ,同党は即日禁止された。この間に労農派が無産大衆党(書記長鈴木茂三郎)などを別個に組織した。その後新党組織準備会は共産党の指導で政治的自由獲得労農同盟に改組されたが,大山,細迫兼光らは政党結成を提唱,1929年11月労農党(新労農党,委員長大山)が結成された。これに対し共産党から〈階級的裏切り〉という攻撃が加えられ,党内から解消運動が起こるなど混乱が深まり,旧労農党の勢力は衰えた。

 中間派では日本労農党が1928年12月,日本農民党,無産大衆党,九州民憲党などと合同し,日本大衆党(書記長平野力三)を結成した。結党直後平野らの腐敗事件が暴露され,清党運動が起こり,翌年5月平野および反対派の鈴木茂三郎らが除名され,同党は旧日労党系の党にすぎないものとなった(委員長麻生)。右派の社民党は左派の退潮で相対的に地位を強めたが,29年9月大阪地方を中心に右傾化に反対する部分が分裂し,30年1月に全国民衆党が結成された。30年2月の総選挙では,分裂を重ね,候補者が乱立した無産政党は得票52万票を得たにもかかわらず,当選5人にとどまった。30年7月,中間派の日本大衆党,全国民衆党などが合同して全国大衆党(議長麻生)を結成,さらに翌年7月,同党および労農党,社民党の一部が合同,全国労農大衆党(書記長麻生)を結成した。

 〈満州事変〉勃発とファシズムの台頭は無産政党にも大きな影響を与え,無産政党の中からファッショ化する部分があらわれ,また社民党は侵略を追認,さらに弾圧で共産党が弱化するなかで,無産政党の全体としての右傾化が進んだ。1932年2月の総選挙で無産政党は得票26万票,当選5人と不振をきわめた。32年7月,社民党と全国労農大衆党は合同し,社会大衆党(社大党,委員長安部)を結成した。同党は労働組合の右翼的戦線統一とも密接なかかわりをもち,三反主義(反資本主義・反共産主義反ファシズム)の方針を掲げたもののその〈反ファシズム〉はあいまいであった。その後,書記長麻生らの親軍・親ファッショの態度が党全体に影響を及ぼしていった。34年に日本労働組合全国評議会(全評)が右翼的戦線統一とファッショ化に反対して組織され,知識人や住民運動の反ファッショ運動と呼応して人民戦線運動を展開した。36年2月の総選挙は国民の反ファッショ的気分に支えられ,社大党52万票・18議席,加藤勘十らの無産派無所属15万票・4議席という結果となった。二・二六事件後,国外の野坂参三らに呼応した国内の共産主義者および加藤ら労農無産協議会(労協)の左翼社会民主主義者は反ファシズム人民戦線をめざし,社大党と労協との合同をはかったが,社大党幹部はこれに応じず,労協も別党コースをとって37年3月日本無産党(委員長加藤)を結成,人民戦線運動は実を結ばなかった。日中戦争開始後,人民戦線事件で12月日本無産党が解散させられ,社大党は〈聖戦支持を表明して,11月綱領も変え,無産政党の名に値しない党に変質した。同党はその後近衛新体制運動に協力,40年7月体制政党に先立って解党し,大政翼賛会に合流した。
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百科事典マイペディア 「無産政党」の意味・わかりやすい解説

無産政党【むさんせいとう】

労働者・農民など無産階級の利益を代表する政党。第2次大戦前の日本ではこのうち非合法の日本共産党を除く諸党の総称として慣用的に使われた。1901年創立の社会民主党(即日禁止)に始まる。大逆事件後の沈滞を経て,1922年日本共産党の結成に続き,1925年普通選挙法制定前後から無産政党結成の動きが活発化した。左派の労農党,右派の社会民衆党,中間派の日本労農党などが,1928年第1回普選で進出。離合集散しつつ3派の抗争が続き,左派の弾圧後,戦線統一をめざして1932年社会大衆党が生まれたが,1940年解散。戦後,各派が合同し日本社会党を結成した。
→関連項目大山郁夫建設者同盟全国大衆党全国民衆党

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「無産政党」の意味・わかりやすい解説

無産政党
むさんせいとう

第二次世界大戦前の日本における社会民主主義諸政党の総称。非合法共産党は除く。1920年代に普及していた無産階級という語がこの名称の起源といわれる。1923年(大正12)ごろより、普通選挙の実現を目ざして日本労働総同盟、日本農民組合などを中心に無産政党結成の動きが始まった。しかし、労働運動内部の左右の対立、政党結成の主導権争いもあってなかなか進まず、25年1月にようやく農民労働党が誕生したが、即日結社禁止の処置を被る。ついで同党は26年3月に左派を排除した労働農民党(労農党)を再建したが、党内が左傾化したため10月には右派が脱党、以後同党は共産党系の合法政党として活動する。脱党派は同年12月に社会民衆党と日本労農党を結成するが、この二つの無産政党はそれぞれ、前者は右派系、後者は左・右両派を排除する中間派系の社会民主主義政党の原型となった。以後、日本の無産政党運動は、29年(昭和4)11月に結成された左派系の労農党(新労農党)を加えて、左・右・中間の三派の対立、離合集散を繰り返しつつ困難な状況のなかで民主主義運動を闘う。普通選挙実施後最初の総選挙では無産政党は全体で49万票(得票率5%)、当選者8名を獲得したが、30年得票数52万票、当選者5名、32年26万票、5名と伸び悩んだ。36年の総選挙では、ファッショ化の危機感のなかで無産政党は22議席を獲得したが、日中戦争開始後は受難と変節の時代を迎える。すなわち、37年12月には左派系の日本無産党(3月結成)が解散を命じられ、また中間派と右派の合同した社会大衆党(1932年7月結成)は戦争協力の態度を表明し、40年7月には解党して大政翼賛会に合流、ここに約15年にわたる無産政党運動はその幕を閉じた。無産政党運動の弱さは政党それ自体の組織論や闘争方法にも問題があったが、基本的には日本の民主政治の未成熟によるものであった。

[田中 浩]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「無産政党」の意味・わかりやすい解説

無産政党
むさんせいとう

日本近代史上,明治後期から第2次世界大戦前までの間集散を繰返した共産党を除く各労働者,農民政党の総称として用いられる。 1901年結成された社会民主党に始る。 10年の大逆事件により一時活動は沈滞したが,25年普通選挙法通過後,再び活発化した。同年農民労働党 (即日禁止) ,翌 26年には労働農民党が結成されたが,まもなく内部対立が表面化し,右派の社会民衆党,左派の労働農民党,中間派の日本労働党に分裂。 28年第1回普通選挙では無産諸政党全体で8名の議員が当選した。同年4月労働農民党は解散させられた。のち無産政党はさらに離合集散を繰返したが,31年7月全国労農大衆党を経て 32年7月社会大衆党が結成されるに及び,一応無産政党の統一がなされた。 40年近衛新党に参加するため解散。第2次世界大戦後各派が合同し日本社会党を結成するにいたった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「無産政党」の解説

無産政党
むさんせいとう

第2次大戦前,無産階級の利益擁護を目的に結成された合法的な社会主義政党の総称。普通選挙実施を前にして,1926年(大正15)3月労農諸団体を組織基盤として労働農民党が結成されたが,労働・農民運動における左右対立激化の影響が政党組織にも及び,年末には右派の社会民衆党,左派の労働農民党,中間派の日本労農党の3政党に分立,以後離合集散をくり返した。32年(昭和7)7月に3系統の合同が実現して社会大衆党を結成し,36・37年の衆議院選挙で躍進した。40年7月近衛新体制運動に参加して自発的に解党。戦後,旧無産政党の活動家の多くは日本社会党の結成に参加した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「無産政党」の解説

無産政党
むさんせいとう

大正・昭和前期の資産の無い階級(労働者・農民ら)を基盤とする社会主義政党の総称
普通選挙法の成立後の1925年12月,農民労働党が結成されたが,即日禁止。その後再三離合集散を重ねた。'32年に成立した社会大衆党は支持が多かった。

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