日本歴史地名大系 「大島浦」の解説
大島浦
おおしまうら
島名の初見は、嘉元四年(一三〇六)六月一二日付昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)のなかに「伊予国
大島浦
おおしまうら
大島浦
おおしまうら
大島村の東部にあり、宗像七浦の一とされる(津屋崎町史)。慶長一〇年(一六〇五)八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に「大嶋」がみえ、浦として把握されていた。元和九年(一六二三)の黒田忠之浦并水夫等目録(松本家文書)によると、大島浦分は水夫五八人・丸木船一五艘。明和九年(一七七二)九月の大嶋浦商船石数並びに漁船書上帳(今林家文書)では商船五(五五〇石積一・七〇石積一・五〇石積以下三)、漁船九三。安永五年(一七七六)の福間触浦々御菜銀並夫銀書上帳(同文書)によれば商船八艘(石数四三六石)の御菜銀九五匁余、漁船六六艘の御菜銀三三〇匁、小伝間三艘の御菜銀六匁。
大島浦
おおしまうら
大島浦
おおしまうら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報