大栗村(読み)おおぐりむら

日本歴史地名大系 「大栗村」の解説

大栗村
おおぐりむら

[現在地名]松山市東大栗ひがしおおぐり

松山市域の西北端に近い山村。南に高縄たかなわ山塊が連亘し平均標高約一五〇メートルの高原地帯の村である。東は菅沢すげざわ村、西は権現ごんげ村、南は上伊台かみいだい村、北は小川谷おがたに(現北条市)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)和気わけ郡の項に、「小栗村 林山有、芝山有」と書かれ、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも、小栗村と記されているが、天保郷帳には大栗村となっている。

古代には、和気大内おおうち(和名抄)に属したと考えられる。中世には、河野氏の家臣福角氏の支配下にあったのであろう。近世に入り、加藤嘉明蒲生忠知の統治下を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。

大栗村
おおぐりむら

[現在地名]須賀川市大栗

雨田あめだ村の南東、阿武隈高地中の山間に立地。集落は低山地の南斜面に散在。中央を須賀川宿から小作田こさくだ村経由で石川郡母畑ぼばた(現石川町)を経て御斎所ごさいしよ街道に連絡する道が通る。延元四年(一三三九)九月一六日の源英房書状(有造館本結城古文書写)に「河東郷内大栗・狢森両郷」とみえ、二階堂道存(時藤)家人矢部又次郎が結城白川親朝から預け置かれたと称して奥州式評定衆であった英房領の河東かわひがし郷などを押領していると訴え、翌日、北畠親房は親朝に当地を英房代官に渡すよう命じている(同年同月一七日「陸奥国宣」同文書)。しかしその後も室町期を通じて矢部氏が領したとみられる。天正一七年(一五八九)の須賀川城攻撃に際し伊達側に内通した二階堂氏重臣矢部下野守に一一月二二日本領大栗三五〇貫文の地などが安堵されている(「伊達政宗充行状写」伊達家文書)

大栗村
おおぐりむら

[現在地名]佐野市大栗町

唐沢からさわ山南方の屋形やかた山の南に位置し、南は犬臥いぬぶし町。元和八年(一六二二)の本多正純改易後は幕府領となり、寛永一〇年(一六三三)より近江彦根藩領で幕末まで続く。慶安郷帳に村名がみえ、田高七七石余・畑高九一石余。彦根藩では、栃本とちもと(現安蘇郡田沼町)富士ふじ村・韮川にらがわ村の藩領四ヵ村の山を御林山とし、番所を当村と韮川村に各一ヵ所、栃本村に二ヵ所設けて取締を行った(享保一六年「彦根藩佐野領御林山事情書」宇都宮大学附属図書館蔵)

大栗村
おおぐりむら

[現在地名]明智町大田おおた 大栗

西は田良子たらご村、東は上田かみだ村に接する山中の小村。慶長郷帳大森村とあり、高五〇石余。正保郷帳では田方四三石余・畑方七石余。文政三年(一八二〇)の家数二六・人数一二三(「村歳代日記帳」佐々木文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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