大桑郷(読み)おおくわごう

日本歴史地名大系 「大桑郷」の解説

大桑郷
おおくわごう

和名抄」所載の郷。諸本に「於保久波」と訓ずる。遺称地は現金沢市大桑町、推定郷域は大桑町を中心としつつも犀川の谷頭左岸に限定する説(三州地理志稿・日本地理志料)、大桑町から犀川対岸の小立野こだつの台地まで広がっていたとする説(加賀志徴)、大桑町から下流に向かって広がり、同市の寺町てらまち台地から町・中村なかむら町まで及んでいたとする説などがあるが、犀川の河道の変遷を考慮するならば郷域の正確な比定はむずかしい。ただ白山本宮神主職次第(白山比神社文書)に長承二年(一一三三)一〇月一日のこととして「限東大桑郷、限南三馬郷、限西大野郷、限北玉(戈カ)郷、此四郷端々ヲ取リ合テ堺四至」とあり、他の三郷とともに末端が割き取られて、御供田ごくでん(米丸保、現金沢市)が成立しており、同保は犀川中流左岸に展開していたと考えられるので、当郷も大桑町から犀川中流左岸まで広がっていた可能性はある。


大桑郷
おおくわごう

「和名抄」高山寺本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。東急本の加賀国石川郡大桑郷の訓は「於保久波」とあり、当郷も「おほくは」と読んでいたものであろう。郷域について、「大日本地名辞書」は現江南市古知野こちのから西方一帯、現一宮市瀬部せべを含む地域に比定する。「日本地理志料」は「按図亘楽田、河北、二宮、奥入鹿、富士諸邑、称小弓荘、虫鹿荘、柳、蓋其地也」とし、現犬山市楽田がくでん辺りに比定する。


大桑郷
おおくわごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本は大桑郷、元和古活字本は大乗郷とする。「和名抄」における同名郷の事例では、大乗郷はみえないが、大桑郷は尾張国丹羽にわ郡、美濃国山県やまがた郡、加賀国石川いしかわ郡にあり、加賀国の場合には訓を「於保久波」(東急本・元和古活字本等)とする。「郷荘考」や「三州志」が大乗郷を採用するのに対し、「越中志徴」は大乗を後世の誤写とする。


大桑郷
おおがごう

山県郡の中世の郷名。「和名抄」山県郡六郷の一つに大桑おおくわ郷があり、中世以降もこれを継承し、現在の高富町大桑の辺りに比定される。承久の乱に際し、逸見又太郎義重は、父惟義とともに幕府方に属し戦功をあげ、恩賞として大桑郷を賜っている(美濃国諸旧記)。なお京方に属した美濃目代斎藤氏に従っていた者に大桑太郎なる人物がいたことが知られる。そののち大桑郷は義重の三男重氏が相伝し、次いで重氏の長男で大桑太郎・逸見三郎太郎と称した頼隆を経て、重氏の末男で大桑七郎・逸見七郎と称した氏義が大桑郷の総領となり、さらに氏義の子で大桑七郎太郎と称した惟泰に継承されたようであるが、以後は不詳(「尊卑分脈」など)


大桑郷
おおくわごう

「和名抄」所載の郷。郷域は諸説一致して現高富たかとみ大桑おおが地区にあてている。地名残存、郡内における郷の配置などから妥当とすべきである。ただし「大日本地名辞書」は現同町桜尾さくらお富岡とみおか地区、また「日本地理志料」は同町梅原うめはらの辺りに及ぶとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android