大洞村(読み)おおぼらむら

日本歴史地名大系 「大洞村」の解説

大洞村
おおぼらむら

[現在地名]岐阜市大洞一―四丁目・大洞西おおぼらにし大洞緑山おおぼらみどりやま一―二丁目・大洞桜台おおぼらさくらだい大洞柏台おおぼらかしわだい大洞桐が丘おおぼらきりがおか大洞紅葉が丘おおぼらもみじがおか

芥見あくたみ村の東に位置する。長禄元年(一四五七)三月一八日の年紀をもつ寺号額墨書銘(願成寺蔵)に各務郡大洞村如意山願成がんじよう寺とみえる。慶長九年(一六〇四)以前の大島光義知行目録写(龍福寺文書)に各務郡大洞村とあり、高二五六石余。同九年光義の死に伴い遺領は子息四人に分知、当村は大島光親領となった(元和二年村高領知改帳)慶長郷帳に記す村高二五六石余は、以後の郷帳類でも変わらない。正保郷帳では幕府領で、田二三二石余・畑二四石余。以後幕府領として推移したとみられる。文化七年(一八一〇)村明細帳によれば田一九町四反余・畑二町六反余、家数八七・人数三二七、大工三・木挽一・瓦屋二。


大洞村
おおぼらむら

[現在地名]小坂町大洞

湯屋ゆや村の南にある。南方山地を源とし北流する鹿山かやま谷と若栃わかどち谷が合流し大洞川となる地点付近の東岸に中重ちゆうじ西岸に鹿山の集落がある。その北方御前ごぜん山から流れ出るくず谷が大洞川に注ぐ地点に正子しようご(荘郷とも)、その北方東岸に橋戸はしと、さらに下流大洞川西岸に二枚越にまいごし、東岸に小和田おわだの集落がある。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳に村名がみえ、高六九石余、うち田二五石余・畑四三石余、物成二〇石余(三ツ成)。元禄検地反歩帳では高一七石余、田一反余・畑八町六反余。「飛騨国中案内」によれば免二割九分八厘、家数三六、うち百姓三二・門屋四。


大洞村
おおぼらむら

[現在地名]高山市大洞町

五名ごみよう村・漆垣内うるしがいとう村の北、なべ山と元服げんぷく(七四九・六メートル)に挟まれた大洞川筋をさかのぼった所にあり、平湯ひらゆ街道が通る。同川は五名村で大八賀だいはちが川に合流し、「斐太後風土記」は村名について「五名村、漆垣内村より見れば、いかにも大洞也」と記す。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の大八賀郷に村名がみえ、漆垣内村とともに高付される(→漆垣内村。同一八年の郷帳では「大ほら村」として高八〇石。元禄検地反歩帳の高一一〇石余、田八町六反余・畑三町余。


大洞村
おおぼらむら

[現在地名]武儀町富之保とみのほ 大洞おおぼら

南流する津保つぼ川流域に位置し、東は日根ひね村、南はまち村。当村には古城跡があり、建久年間(一一九〇―九九)に宇佐美左衛門尉が居城としたというが(新撰美濃志)、事実は不明。慶長一〇年(一六〇五)の実蔵坊津保檀那目録案(経聞坊文書)に「大ほら」とみえる。元禄郷帳に「上ノ保大洞村」と記され、高一〇〇石余。


大洞村
おおぼらむら

[現在地名]小原村大洞

現小原村の北西にあり、犬伏いぬぶせ川の上流に位置する。沢田さわだから荷掛にかけを通り多治見たじみ(現岐阜県)に抜ける多治見道が通る。猿堂塚さるどうづかには宝篋印塔が一基残る。大洞城跡があり、削平地・石垣・堀・堤・馬場・長者屋敷跡が残る(小原村誌)

寛永郷帳では岡崎藩領、天明六年(一七八六)旗本久世三四郎領で明治維新まで続く。


大洞村
おおほらむら

[現在地名]能生町大洞

藤崎とうざき村の東端で海に入る濁澄にごりすみ川の谷に沿い一キロばかり山に入ると、標高一〇〇メートルから上に緩傾斜地が開け、集落がある。古来地滑りの多い土地であるが、地味肥沃のため家数を増やさぬため分家することも制限したという。山道往来で、能生谷の中野口なかのくち高倉たかくらに通じる。正保国絵図に高六七石余とある。


大洞村
おおほらむら

[現在地名]谷汲村大洞

深坂ふかさか村の東にあり、近世初頭は同村の枝郷であった。建武四年(一三三七)三月、北朝方の鷲見忠保が大洞を攻め、焼払っている(鷲見家譜)。正保郷帳では大垣藩領で、田九一二石余・畑一〇七石余・山年貢五石余。元禄郷帳では旗本戸田領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田六三四石余・畑一〇八石余、田四三町七反余・畑九町四反余、新田高として田二九石余・畑四石余、家数七八、男一九七・女一七七、馬三二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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