大津浦(読み)おおつうら

日本歴史地名大系 「大津浦」の解説

大津浦
おおつうら

大津町の琵琶湖岸に営まれた湊。古代以来の湖上交通の拠点の一つであったが、近世初頭に再整備され、米を中心とする物資の集散地とし湖最大の賑いをみせた。その機能は江戸時代のいわゆる大津百町のうち湖辺に位置した浜組一七町が中心であったと考えられるが、東海道分間延絵図でみると、大津代官所の東手に乗船場、そのさらに東(平蔵町辺りか)にも百艘船乗船場・船番所と記され、この間に荷揚場である多くの関が描かれる。

〔豊臣秀吉の時代〕

天正一二年(一五八四)秋大坂城の普請が一段落するに伴い政治の中心は大坂に移り、湖上水運も拠点を坂本から大津へ移す必要があった。つまり軍用船の整備や東国・北国の諸大名の参勤用の船を維持すること、さらに直轄領(蔵入地・台所入とも)のうち東海道・東山道・北陸道諸国にあった八〇万石余の米の大半の輸送を湖上水運を用いて大津に回漕することが要求された。そのために編成されたのが大津百艘船で、その由緒書(木村文書)によれば、秀吉は大津に一〇〇艘の船を置くことを命じ、坂本・堅田や木浜このはま(現守山市)などの船持がこれを用意した。秀吉は褒美として大津町居住の船持を大津宿並みに諸役免許とし、また百艘船の維持のために滋賀・高島・浅井あざい伊香いか蒲生がもう・神崎・野洲やす栗太くりたの八郡の「湊へも百艘舟勝手次第ニ舟差し遣わシ艫おり回船仕」ることなどをはじめとする諸特権を与えたという。天正一五年二月一六日付の浅野長吉定書(同文書)は五ヵ条からなり、大津から出る荷物・旅人を他浦からの入船に乗せること、長吉の管轄の下で役義を勤める船(大津百艘船)以外が大津からの積出しをすること、大津百艘船を他浦で公事船として使役することなどを禁じ、浅野家家中の者でも勝手に百艘船を使役してはならぬという一条もある。同二〇年三月、朝鮮出兵に先立って当湊からも水夫が徴発されており、「大津村加子」二〇〇人のうち三五人を割当てられている(同年一月「観音寺他連署加子徴発状」同文書)。なお兵に加わった加子に対してはその妻子に二人扶持・配当一〇石などと人夫料や補助金を与えている(同文書)。文禄三年(一五九四)に始まる伏見ふしみ(現京都市伏見区)の普請により大津浦はさらに発展をみる。当時近江の滋賀・栗太・蒲生三郡の蔵入地からあがる米三千二九四石余・大豆四九五石余のうち、七割以上が伏見城の普請に充てられ、また湖の諸浦から板材などを湖上で大津に運ぶなど、この年一二月から翌年一一月まで船数延べ二千一三八艘・水夫数延べ五千八三三人にのぼった(芦浦観音寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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