大溝城下(読み)おおみぞじようか

日本歴史地名大系 「大溝城下」の解説

大溝城下
おおみぞじようか

[現在地名]高島町勝野かつの

湖西唯一の城下町琵琶湖の入江であったどう(乙女ヶ池)に築かれた水城と、山手に広がる侍町、西近江路に沿って細長く形成された町屋地域からなる。城郭部に隣接して大溝湊を擁し、水陸の結節点ともなっていた。

〔成立〕

天正六年(一五七八)織田信澄が養父磯野員昌の後を継ぎ、新庄しんじよう(現新旭町)から当地に移り、城を築くと同時に町造りを行った。この時の町並は、信澄が新庄や南市みなみいち(現安曇川町)から人々を移転させて形態を整えたと考えられる(福井文書)。天正一五年九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)では「大ミそ打下」とあり、高一千一〇八石余。元和五年(一六一九)に伊勢国安濃あの上野うえの(現三重県安芸郡河芸町)から分部光信が二万石で入封するまでの間、豊臣秀吉直轄領を含めてめまぐるしい領主の交替をみる。慶長八年(一六〇三)には、信澄の築いた大溝城を取壊して甲賀郡水口みなくち(現水口町)の建設資材として流用され(蒲生郡志)、城下のシンボルを失った。分部光信は天守城郭のない大溝へ入り、信澄時代の三の丸部分に陣屋を築いて、町造りやその整備に着手した。光信の城下町整備は陣屋部分を中心に、西方山手石垣いしかけ村に家臣の武家屋敷を配し、前封地から転居してきた職人や商人の居住地を町屋地域を拡大して整えていった。この大溝城の建設については注目される史料があり、信澄時代の城下建設の作事方大工棟梁となった村谷家に残る口上書に、音羽おとわ村居住の村谷次郎左衛門を大工棟梁に、高島郡内の大工を動員して作事を進めたことがわかる。のちの陣屋建設や御殿の改修工事にも音羽村村谷嘉右衛門が関与していた。

〔構造〕

山手に広がる武家屋敷地域と、南北に抜ける西近江路に沿う町屋地域からなる。元和五年の武家屋敷絵図(横田家蔵)では、四五軒の屋敷割が描かれ、知行給が一〇〇―三五〇石程度であった。分部氏の家臣団一五一名という記録があり(長野文書)、禄高の低い下級武士は当然町人町の一地域に居住していたと考えられる。享保一七年(一七三二)の大溝旧図(横田家蔵)では、伊勢いせ町・石垣町西にし町辺りに御家人の居住地が存在した。先の四五軒の武家屋敷地は水路で町人町と区別され、惣郭と称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報