大窪詩仏(読み)オオクボシブツ

精選版 日本国語大辞典 「大窪詩仏」の意味・読み・例文・類語

おおくぼ‐しぶつ【大窪詩仏】

  1. 江戸後期の漢詩人。名は行、字(あざな)は天民。通称は柳太郎。常陸の人。市河寛斎に詩を、山本北山儒学を学ぶ。神田お玉が池に詩聖堂を構えて、菊池立山、柏木如亭とともに宋代の清新な詩風を広めた。著「詩聖堂詩集」など。明和四~天保八年(一七六七‐一八三七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「大窪詩仏」の意味・わかりやすい解説

大窪詩仏 (おおくぼしぶつ)
生没年:1767-1837(明和4-天保8)

江戸後期の漢詩人。常陸の人。名は行,字は天民,通称は柳太郎,詩仏は号。住居を詩聖堂と号した。江戸に出て,清新派の詩風の両大家であった山本北山市河寛斎に漢詩を学び,とくに寛斎の指導した詩社江湖社の有力な成員として活動した。南宋の詩を典範とする,日常的な詩情に富む平明な詩風で人気を集め,みずから南宋詩の紹介,啓蒙につとめた。のちには神田お玉ヶ池のほとりに詩社玉池(ぎよくち吟社を開いて多くの後進を育て,19世紀前半の江戸の漢詩壇の大御所的存在であった。著書に詩集《詩聖堂詩集》(初編1809,2編1828,3編1838),詩論《詩聖堂詩話》(1799)などがある。また,書画をよくし,墨竹にすぐれていた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大窪詩仏」の意味・わかりやすい解説

大窪詩仏
おおくぼしぶつ
(1767―1837)

江戸後期の漢詩人。名を行、字(あざな)を天民、通称を柳太郎、号を詩仏という。常陸(ひたち)国(茨城県)に医者の子として生まれる。山本北山(ほくざん)の奚疑塾(けいぎじゅく)や市河寛斎(いちかわかんさい)の江湖(こうこ)詩社に入って詩文を学んだ。1806年(文化3)江戸・神田お玉が池に詩聖堂を造築し、ここを根拠地に文化・文政期(1804~30)の江戸漢詩壇の大御所となった。平易清新な、俳諧(はいかい)に近い味わいの詩風が人気を得たのである。竹の画も得意とした。詩集に『詩聖堂詩集』初3編(1810~38)、『西遊詩草』(1819)、『北遊詩草』(1822)などがある。天保(てんぽう)8年2月11日没。墓は神奈川県藤沢(ふじさわ)市本町に現存する。

[揖斐 高]

『富士川英郎著『江戸後期の詩人たち』(1973・筑摩書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大窪詩仏」の解説

大窪詩仏 おおくぼ-しぶつ

1767-1837 江戸時代後期の漢詩人。
明和4年生まれ。江戸で山本北山,市河寛斎に師事。のち柏木如亭と二痩詩社をおこす。文化3年神田に詩聖堂をひらき,菊池五山とともに江戸詩壇の中心となった。天保(てんぽう)8年2月11日死去。71歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。名は行。字(あざな)は天民。通称は柳太郎。別号に痩梅(そうばい),江山翁。詩集に「詩聖堂詩集」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大窪詩仏」の意味・わかりやすい解説

大窪詩仏
おおくぼしぶつ

[生]明和4(1767).7. 常陸
[没]天保8(1837).2.11.
江戸時代後期の折衷派の儒学者。漢詩人。山本北山,市河寛斎に学ぶ。秋田藩に出仕。著書『詩聖堂詩集』 (33巻) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...

実質賃金の用語解説を読む