江戸後期の儒者,漢詩人。上野(こうずけ)の人。名は世寧。字は子静。通称は小左衛門。寛斎は号。早くから江戸に出て昌平黌に学び,朱子学を修めた。1791年(寛政3)富山藩に儒官として抱えられ,1811年(文化8)までその職にあってしばしば富山に赴いたが,儒者としての業績にとくに見るべきものはない。文学的な資質に恵まれ,漢詩人としての活動に本領があった。昌平黌に学んでいた時分には,古文辞派の擬古主義の影響を強く受けて,その詩風の詩人としてすでに一家をなしていた。おりしも18世紀中ごろ以来全盛を誇っていた古文辞派がようやく勢力を失い,江戸では古文辞派を激しく批判する山本北山の詩論書《作詩志彀(しこう)》(1783)の出現を契機として,真情を重視する清新派という新しい詩風が起こってきた。寛斎も18世紀末に清新派に転じ,南宋の陸游や范成大を手本とする日常的な詩情に富んだ平明な詩風を主張して,たちまち新しい詩風の指導者となった。江湖社(こうこしや)という詩社を開いて,大窪詩仏,柏木如亭などの詩人を育て,江戸後期の漢詩壇に大きな役割を果たした。詩集に,古文辞派時代の作品を収めた《寛斎摘草》(1786),清新派に転じてからの作品を収めた《寛斎先生遺稿》(1821)があるほか,上代以来の日本の漢詩史を記述した《日本詩紀》(刊年不詳),《全唐詩》に漏れた作品を日本に伝存する資料によって補った《全唐詩逸》(1804)などの学問的著述もある。書家市河米庵はその子。地理学者山村才助は甥である。
執筆者:日野 龍夫
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江戸後期の儒学者、漢詩人。姓は市川とも書く。名は世寧、字(あざな)は子静(または嘉祥(かしょう))、号は寛斎のほか江湖詩老など。上野(こうずけ)(群馬県)の人。15歳で江戸に遊学、28歳のころ昌平黌(しょうへいこう)に入り、5年間学員長を務めた。1790年の寛政(かんせい)異学の禁を批判し、42歳のとき昌平黌を追われた。その後、生活は苦しく妻子は飢えに泣くという窮状にたった。43歳で富山藩校の教授となり、掛川藩世子の侍講を兼ねる。富山藩に仕えること20年余、63歳で辞任した。
漢詩人としては、40歳ころに神田お玉が池(東京都千代田区)に江湖(こうこ)詩社を結成した。その詩論は幾度も変わり、終わりには反古文辞を基調としながらその長所はとり、宋詩(そうし)を鼓吹し、性霊説(せいれいせつ)を主張した。僧元政(げんせい)、釈六如(りくにょ)の系統を継ぐものである。『寛斎先生遺稾(いこう)』5巻、『寛斎摘草』4巻、『全唐詩逸』3巻(編)、『日本詩紀』53巻(編)などの編著がある。
[松下 忠 2016年4月18日]
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…理論面の代表者は山本北山で,擬古主義を模擬剽窃(ひようせつ)として激しく攻撃した。実作面を代表するのが,市河寛斎とその門人たち,大窪詩仏や柏木如亭などであって,彼らは日常的な素材,詩情に富む宋詩の影響のもとに,近世人の生活感情を的確にとらえた新しい詩風を示した。ここに,漢詩文は日本の風土に完全に根づき,近世文学の一分野として定着した。…
…漢詩集。市河寛斎編。1788年(天明8)ころ成立。…
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