市河寛斎(読み)イチカワカンサイ

デジタル大辞泉 「市河寛斎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐かんさい〔いちかはクワンサイ〕【市河寛斎】

[1749~1820]江戸後期の儒学者・漢詩人。上野こうずけの人。名は世寧、あざなは子静。昌平坂学問所に学び、富山藩校教授となった。著「日本詩紀」「全唐詩逸」など。

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精選版 日本国語大辞典 「市河寛斎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐かんさい【市河寛斎】

  1. 江戸後期の朱子学者、詩人。名は世寧。通称小左衛門。別号江湖詩老。昌平黌(しょうへいこう)に学び、富山藩校教授として二〇年在職。主著「全唐詩逸」「日本詩紀」「寛斎遺稿」など。寛延二~文政三年(一七四九‐一八二〇

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改訂新版 世界大百科事典 「市河寛斎」の意味・わかりやすい解説

市河寛斎 (いちかわかんさい)
生没年:1749-1820(寛延2-文政3)

江戸後期の儒者,漢詩人。上野(こうずけ)の人。名は世寧。字は子静。通称は小左衛門。寛斎は号。早くから江戸に出て昌平黌に学び,朱子学を修めた。1791年(寛政3)富山藩に儒官として抱えられ,1811年(文化8)までその職にあってしばしば富山に赴いたが,儒者としての業績にとくに見るべきものはない。文学的な資質に恵まれ,漢詩人としての活動に本領があった。昌平黌に学んでいた時分には,古文辞派の擬古主義の影響を強く受けて,その詩風の詩人としてすでに一家をなしていた。おりしも18世紀中ごろ以来全盛を誇っていた古文辞派がようやく勢力を失い,江戸では古文辞派を激しく批判する山本北山の詩論書《作詩志彀(しこう)》(1783)の出現を契機として,真情を重視する清新派という新しい詩風が起こってきた。寛斎も18世紀末に清新派に転じ,南宋の陸游や范成大を手本とする日常的な詩情に富んだ平明な詩風を主張して,たちまち新しい詩風の指導者となった。江湖社(こうこしや)という詩社を開いて,大窪詩仏柏木如亭などの詩人を育て,江戸後期の漢詩壇に大きな役割を果たした。詩集に,古文辞派時代の作品を収めた《寛斎摘草》(1786),清新派に転じてからの作品を収めた《寛斎先生遺稿》(1821)があるほか,上代以来の日本の漢詩史を記述した《日本詩紀》(刊年不詳),《全唐詩》に漏れた作品を日本に伝存する資料によって補った《全唐詩逸》(1804)などの学問的著述もある。書家市河米庵はその子。地理学者山村才助は甥である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「市河寛斎」の意味・わかりやすい解説

市河寛斎
いちかわかんさい
(1749―1820)

江戸後期の儒学者、漢詩人。姓は市川とも書く。名は世寧、字(あざな)は子静(または嘉祥(かしょう))、号は寛斎のほか江湖詩老など。上野(こうずけ)(群馬県)の人。15歳で江戸に遊学、28歳のころ昌平黌(しょうへいこう)に入り、5年間学員長を務めた。1790年の寛政(かんせい)異学の禁を批判し、42歳のとき昌平黌を追われた。その後、生活は苦しく妻子は飢えに泣くという窮状にたった。43歳で富山藩校の教授となり、掛川藩世子の侍講を兼ねる。富山藩に仕えること20年余、63歳で辞任した。

 漢詩人としては、40歳ころに神田お玉が池(東京都千代田区)に江湖(こうこ)詩社を結成した。その詩論は幾度も変わり、終わりには反古文辞を基調としながらその長所はとり、宋詩(そうし)を鼓吹し、性霊説(せいれいせつ)を主張した。僧元政(げんせい)、釈六如(りくにょ)の系統を継ぐものである。『寛斎先生遺稾(いこう)』5巻、『寛斎摘草』4巻、『全唐詩逸』3巻(編)、『日本詩紀』53巻(編)などの編著がある。

[松下 忠 2016年4月18日]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「市河寛斎」の意味・わかりやすい解説

市河寛斎
いちかわかんさい

[生]寛延2(1749).上野,甘楽
[没]文政3(1820).7.10. 江戸
江戸時代後期の漢詩人。名,世寧。字,子静。昌平坂学問所に学び,のちに学員長に補せられたが,5年後病のため辞し,富山侯に仕えた。さらに江戸に江湖社を開いて多くの俊秀を育てた。博学で詩才があり,初め中国晩唐の詩を学び,のちに陸游 (りくゆう) の清新な詩を尊んだ。『日本詩紀』 (刊年未詳) ,『全唐詩逸』 (1804) を編み,『寛斎先生遺稿』『随園詩鈔』など著書多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市河寛斎」の解説

市河寛斎 いちかわ-かんさい

1749-1820 江戸時代中期-後期の漢詩人。
寛延2年6月16日生まれ。市川蘭台の子。上野(こうずけ)(群馬県)の人。江戸の昌平黌(しょうへいこう)の学員長となる。天明7年(1787)神田に江湖詩社をおこす。柏木(かしわぎ)如亭,菊池五山らにおしえ,写実的な新詩風を確立する。越中富山藩にまねかれ,藩校広徳館の教授をつとめた。文政3年7月10日死去。72歳。名は世寧。字(あざな)は子静。別号に半江,江湖詩老。著作に「日本詩紀」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「市河寛斎」の解説

市河寛斎
いちかわかんさい

1749〜1820
江戸後期の朱子学者・漢詩人
上野 (こうずけ) (群馬県)の人で,米庵の父。林家 (りんけ) に学び,昌平坂学問所の学頭,のち富山藩の藩校広徳館の教授となった。門人が多く,詩才にすぐれ,江戸の詩風を変えたといわれる。著書に『寛斎遺稿』など。

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367日誕生日大事典 「市河寛斎」の解説

市河寛斎 (いちかわかんさい)

生年月日:1749年6月16日
江戸時代中期;後期の漢詩人;儒者;越中富山藩士
1820年没

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世界大百科事典(旧版)内の市河寛斎の言及

【漢詩文】より

…理論面の代表者は山本北山で,擬古主義を模擬剽窃(ひようせつ)として激しく攻撃した。実作面を代表するのが,市河寛斎とその門人たち,大窪詩仏柏木如亭などであって,彼らは日常的な素材,詩情に富む宋詩の影響のもとに,近世人の生活感情を的確にとらえた新しい詩風を示した。ここに,漢詩文は日本の風土に完全に根づき,近世文学の一分野として定着した。…

【日本詩紀】より

…漢詩集。市河寛斎編。1788年(天明8)ころ成立。…

※「市河寛斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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