大藤村(読み)おおふじむら

日本歴史地名大系 「大藤村」の解説

大藤村
おおふじむら

[現在地名]北郷町大藤

現北郷町の南端に位置し、北は郷之原ごうのはら村。東に鵜戸うど山地、西はなかなど山々が連なり、村の中央部を北から南への広渡ひろと(大藤川)が貫流する。水利に恵まれ、川沿いの平地に水田が展開、水害に備えて二つの竹林堤防が築かれていた(日向地誌)。郷村帳類では近世を通じて一村として高付されたが、実質的には近世中期頃から上大藤・下大藤の二村に分れていた。「日向地誌」は分村の時期を延享年間(一七四四―四八)とするが、正徳四年(一七一四)頃の飫肥藩人給帳によると元禄八年(一六九五)高崎源之丞(九石取)を上大藤村庄屋に任命し、下大藤村庄屋として宮浦久助(大藤足軽宮浦覚左衛門嫡子)の名もみえることから、五代藩主伊東祐実統治の時代(寛文元年―正徳四年)すでに二村に分れていたと考えられる。上大藤村は村の北東部、大藤川東岸の山麓沿い北から南へ山角やまずみ(山澄)尾崎おざきかみなかしもの五集落からなり、下大藤村は村の南部、折生田おりゆうだ菖蒲迫しようぶざこなかさこ内之野うちののと大藤川西岸内之田うちのたの五集落からなる。このうち菖蒲迫・中ノ迫・内之野三集落を倉迫くらざこと総称。南北飫肥おび街道が通り、ほかに折生田から富土ふと(現日南市)、中ノ迫から宮浦みやうら(現同上)に越える間道も通じていた。明治三年(一八七〇)上大藤・下大藤の二村が合併して再び大藤村となる(郡行政、ただし「日向地誌」では合併年次を明治五年とする)

折生田墓地の丘陵最上部に正応六年(一二九三)二月七日の紀年銘と胎蔵界大日種子を刻んだ板碑が残る。

大藤村
おおふじむら

[現在地名]吉永町都留岐つるぎ

南ウネ山(四七一メートル)に発し、東流して大股おおまた村で八塔寺はつとうじ川に合流する支流沿いの細長い谷間にある。北および西は美作国英田あいだ横尾よこお(現英田町)。元禄一三年(一七〇〇)の国境改のおり、同村と当村の里程は二四町四二間とされ、当村の家並北端から国境の梨木坂峠(現梨木峠)まで一〇町四〇間。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に神根こうね内として村名がみえ、物成六五石余、夫米三石余。寛永備前国絵図では高一八二石余。「備前記」に枝村として上大藤が載る。「備陽記」では田畑一二町余、家数四三・人数一九九。

大藤村
おおふじむら

[現在地名]三間町大藤

三間盆地の西北部に位置し、東は黒井地くろいじ村、西はすなわち村、南は成家なりえ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「大藤村 茅山有、日損所」と村名がみえ、干害を受けやすい村であった。吉田藩領。太閤検地の石高は四八二石一斗一升、正保検地の石高は五五七石六斗一升一合である。

村内の安養あんよう寺は天台宗に属し、鬼霊山と号し、本尊は阿弥陀如来。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「等妙寺末、天台当主理教坊賢隆」と記される。

大藤村
おおふじむら

[現在地名]篠山市大藤

奥山おくやま村の南にあり、南に三国みくに岳がある。東部の大納言式部だいなごんしきぶには鏡を祀る小祠がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「大藤村」とみえ、高一二五石余。正保郷帳では田高六四石余・畠高四石余。元禄郷帳では高一二七石余。「丹波志」では大芋おくも庄のうちで、高九一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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