大谷郷(読み)おおやごう

日本歴史地名大系 「大谷郷」の解説

大谷郷
おおやごう

郡の東部に位置する。近世には現在の町域のうち石原いしばらを除く全域は、黒川郡大谷または大谷庄・大谷郷ともよばれ仙台藩北方御郡高城たかぎ(現宮城郡松島町)宮戸浜みやとはま(現桃生郡鳴瀬町)とともに高城代官所の支配下にあった。平安末期にはすでに国衙領として陸奥国守平泉藤原氏の支配下に置かれたが、成立の過程は不明。文治五年(一一八九)平泉藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府の所領となったが初期の地頭は不明。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一〇月五日条の源頼朝下文にみえる国司厩佃(国司の馬屋維持のための直轄田)が設定された郡郷のうちに「大谷」とある。この下文は陸奥留守職に抜擢された伊沢(留守)家景に与えられたもので、留守氏の関与する土地であったと思われる。直接の地頭については、田代文書のうちの大谷保三宅みやけ(現大郷町味明)地頭職の手継文書によって、味明みやけを中心とした地域の様子が知られる。手継文書は、承元二年(一二〇八)四月一三日付菅原某譲状「ゆつりわたす大谷保内 みやけの村」をはじめとして、嘉禎元年(一二三五)一二月二日付菅原政光譲状、同二年四月五日付関東下知状、弘長元年(一二六一)五月二九日付菅原有政相博状、文永元年(一二六四)一一月二二日付関東下知状、建治二年(一二七六)七月二〇日付菅原有政代僧浄心和与状、同年八月二五日付関東下知状、正応四年(一二九一)六月八日付関東下知状、永仁三年(一二九五)三月一五日付菅原幸信譲状の九通があり、菅原姓伊佐氏が代々相伝としたものである。


大谷郷
おおたにごう

青墓あおはか町は、天正一四年(一五八六)九月二一日の豊臣秀吉朱印知行目録写(名和文書)慶長郷帳などに大谷村と記され、中世史料にみえる当郷は、同町とその一帯に比定される。康永三年(一三四四)九月八日の足利将軍家御教書(服部玄三氏所蔵文書)に「美濃国大谷郷」とみえ、同月五日、当郷の地頭職が足利尊氏より幕府奉行人布施資連に与えられている。九月一一日守護土岐頼泰はこの命令を伝えたが実行されず、改めて一〇月七日に斎藤五郎左衛門尉・雑賀大介允両名に命令されている(「高師直施行状」秋元興朝氏所蔵文書など)。観応二年(一三五一)資連はもとの当郷地頭と思われる大谷四郎入道らの乱暴を幕府に訴え、同年一〇月二七日幕府は現地の引渡しを頼泰に命じている(「足利義詮御教書」京都大学蔵古文書纂)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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