大貫村(読み)おおぬきむら

日本歴史地名大系 「大貫村」の解説

大貫村
おおぬきむら

[現在地名]田尻町大貫

加護坊かごぼう山の北麓にあり、南麓は上郡かみごおり(現涌谷町)で、東は小里おさと(現同上)田尻宿吉住よしずみ(現涌谷町)に至る道が通る。鹿飼しかがい沼など旧はさま川へ続く平坦地もあるが、ほとんどは山地。村名は古代長岡ながおか郡の(潴)郷と関係があるとする説もある。正保郷帳に村名がみえ、田七〇貫一一四文・畑一四貫八八八文で旱損・雑木山と注され、ほかに新田三貫七五八文。「安永風土記」では田九三貫一五一文・畑二三貫二九六文(うち茶畑一六文)、蔵入二〇貫九四文、ほかは給所でほとんどが伊達安芸分。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]延岡市大貫町

岡富おかとみ村の南西に位置し、南方みなみかた村の南東、大瀬おおせ川北岸低地に立地する。水運の便があった。天永元年(一一一〇)一一月日の今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)に大貫とみえ、今山いまやま八幡宮の五月五日の駻馬一〇疋のうち三疋、一〇月放生会の月形豹船の豹饗(樽二・清三五膳)伊福形いがたとともに負担している。建久図田帳に摂関家領島津庄の寄郡として「大貫 十二丁」とみえ、地頭は惟宗(島津)忠久であった。建久図田帳の応永二八年(一四二一)の追記にも「大貫 十二町」とある。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]大洗町大貫町

涸沼ひぬま川と太平洋の間にあり、北は磯浜いそはま村。

応永二八年(一四二一)の文書と伝える鹿島神宮所領日記(鹿島神宮文書)に「大貫かう三十貫」とみえ、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「高千七十一石六斗九升 此内四百三十四石三斗 荒 定納九拾貫文 根元賀茂之介大貫 此内五拾四貫三百文かかり」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高の茨城郡に「大貫村」とみえる。「国用秘録」には「此村漁場也田真土畠野土へ砂交り旱損場也秣場薪取場なし享保三人別千七百六十三人 享和二人別九百人家弐百九拾弐軒船廿五艘分付山三拾七町七反六畝三分 享和三亥ニ荒畠百石開ク」とある。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]桜江町大貫

田津たづわたり両村の北、江川中流域の右岸丘陵に立地。江川に臨む狭小な段丘や氾濫原、江川に注ぐ久井谷ひさいだに川・榎谷えのきだに川などの河谷平野に耕地がある。天文二三年(一五五四)二月二三日の小笠原長雄感状写(坂根家文書)によれば、同年二月二〇日に福屋勢が「大貫村」に至った際、これを迎え撃った小笠原長雄配下の坂根小三郎らが福屋上総介を討取っている。この戦いは江川水系地域における政治的主導権をめぐる国人領主の小笠原氏と福屋氏との争いの一環で、福屋氏はこの時期執拗に江川筋への東進を繰返している。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]神崎町大貫・四季の丘しきのおか

こおり村の南東に位置し、銚子道が通る。慶長四年(一五九九)の検地では高五二九石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。元和五年(一六一九)伊勢津藩領となり、幕末まで変わらない(下総国各村級分など)。天保郷帳では高七〇三石余。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数三八。「利根川図志」では北方のいま村と今村新田の間に大貫新田が描かれる。藤木ふじのきに津藩の陣屋が置かれ、香取郡一四村・三千石の同藩飛地領を管轄した。「下総名勝図絵」には天神てんじん山の麓に領主の陣屋があると記される。陣屋には文化七年(一八一〇)小林一茶、同一四年算学の山口和、天保一二年(一八四一)漢詩人梁川星巌らが訪れている。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]上越市大貫・御殿山ごてんやま町・上昭和かみしようわ町・てら町二丁目

飯井いい村の南に位置し東は高田城下寺町。寛文五年(一六六五)の地震後、城下家中屋敷地拡張のため表寺町の寺院(善導寺・長恩寺など)が当村域に移され、現在の裏寺町が形成された。そのため城下寺町の寺院でありながら当村域所在の寺として扱われたものがある。正保国絵図によると高三〇二石余。天和三年郷帳では高五九八石余、うち山高一石七斗五升六合・漆高七升。ほかに新田高五八石七斗余。元禄郷帳では六七七石一斗余。当村に接して勘左衛門かんざえもん新田(天保郷帳にみえ高二九石三斗余)があった。矢沢利右衛門が安永(一七七二―八一)末年頃から開墾を始め、天明六年(一七八六)に成立したと伝え、田畑は城下各町に預け、また人別小作に出したという(高田市史)


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]筑波町大貫

神郡かんごおり村の真西、桜川東岸に所在。神郡村との間には歴然とした古代条里遺構が確認され、「和名抄」にみえる筑波郡大貫郷に比定される。字古屋敷ふるやしきには細かい畑地割が残り、素焼の盃が大量に出土しているので、同地が戦国期の居住地で、近世に現在の居住地である字東大貫ひがしおおぬきに移ったと考えられる。近世初期には杉木すぎのき村とともに一村の扱いを受けた(→杉木村が、のち独立して山根やまね八ヵ村の一つとなり、領主は神郡村に同じ。


大貫村
おおぬきむら

[現在地名]千倉町大貫

川戸かわと村の西に位置し、古刹小松こまつ寺がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高八〇七石余、うち田方五一四石余。里見氏給人領。正保郷帳では田高三八八石余・畑高一三三石余、旗本大久保教勝領(寛永一〇年から)。元禄郷帳では高五三三石余。元文村高帳によると大久保家領五二一石余と小松寺薬師堂領一二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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