大迫村
おおはさまむら
[現在地名]大迫町大迫
早池峰山を源流とする岳川が中居川と合流して稗貫川となる辺り、遠野街道の大迫駅を中心とし、東は内川目村、南は外川目村、西は亀ヶ森村、北は紫波郡佐比内村(現紫波町)。中世は大迫氏の本拠地であったが、大迫城跡は近世には内川目村に属した。内川目村・外川目村は近世初期まで当村の枝村であったという。慶長一七年(一六一二)九月一三日の南部利直伝馬黒印状(鬼柳文書)によれば、盛岡より遠野へ向かう鬼柳蔵人に伝馬一匹を出すよう、達曾部(現上閉伊郡宮守村)などとともに命じられている。慶安二年(一六四九)の南部領海陸道規帳(県立図書館蔵)によれば、乙部(現紫波郡都南村)より当地まで四里半、当地より横田(現遠野市)までの六里半の間に稗貫川と猿ヶ石川があり、稗貫川には長さ一〇間・幅二間の橋があり、猿ヶ石川は歩行渡であった。天和二年(一六八二)毒草・にせ薬種禁止、にせ金銀売買禁止、手間賃高値禁止、徒党禁止に関する高札が立てられている(「御領分高札集」盛岡市中央公民館蔵)。
大迫村
おおさこむら
[現在地名]千歳村長峰 土木園・平の上・平の下・石五道・尾の平上・尾の平下・高添上・高添下・下の原
長峰村の北東、茜川北岸にある。文亀二年(一五〇二)四月一九日の井田郷長峰名五郎丸隠田注文案(沓掛文書)によれば、井田郷長峰名五郎丸のうち「大迫かしらニ田五舛まき」などの隠田が摘発され、沓懸美作守(之武)に引渡されている。また永正八年(一五一一)三月吉日の沓懸之武知行分坪付(同文書)によれば、之武から子の沓懸清兵衛尉へと譲られた五郎丸三分の一知行分のうちに「大迫一段弐斗蒔下之きれ、同助二郎作」「大迫、同井之尻八舛蒔、是ハ八郎三郎作之内也」などがあった。また「ろくはく」があった「ときその原」は当村土木園に比定される。元禄見稲簿には岡領御絵図ニ出分として長峰村の内の大迫村を記し、元禄郷帳・天保郷帳では長峰村の内に含まれている。
大迫村
おおばさまむら
[現在地名]鹿島台町大迫
大松沢鹿島台丘陵から品井沼に流れる志田川(現鶴田川)の支流大迫川と小迫川の谷底地によって囲まれた丘陵および品井沼谷地からなる。東は深谷村、西は黒川郡大松沢村(現大郷町)、南は品井沼谷地、北は広長村および松山郷次橋村(現松山町)に接する。
至徳三年(一三八六)七月一二日の石橋棟義預ケ状(相馬文書)によれば、相馬治部少輔(憲胤)は「陸奥国長世保内大迫郷事、所被預置也」とある。南北朝争乱期に足利尊氏方として奮戦した相馬氏は、斯波氏の一族石橋棟義より一時県内各地に闕所を与えられており、大迫郷もその一つである。
大迫村
おおさこむら
[現在地名]和知町字大迫
南流する上和知川を挟んで篠原村の東に位置する。南北に細長い村で、南縁を由良川が西流する。耕地や集落は両河川の合流点の北東山麓部分に集まっている。東から北にかけて塩谷村・長瀬村、北は下乙見村。園部藩領。
村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では七七石余であったが、天保郷帳では一八〇石余となった。上乙見川の水を下乙見村から引く用水路が完成し、上和知川沿岸の大規模な新田開発が行われたためである。
大迫村
おおさこむら
[現在地名]水俣市大迫
熊陣山の西北を流れる小川の流域にあり、北に早栗村、南に陳内村の小村の榎村、東には小津奈木村がある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳には「水俣内小津奈木村」の小村として村名がみえ、屋敷数九、男三一・女二四、牛三があげられる。
大迫村
おおさこむら
[現在地名]川上村大字大迫
上谷村の東、現在の吉野川大迫ダムの上方に立地。「大廻村」(慶長郷帳・寛永郷帳)、「大せひ村」(元和郷帳)などとも書かれた。山上ヶ岳や大普賢岳への登山路に沿う。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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