デジタル大辞泉
「大長寺」の意味・読み・例文・類語
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だいちょう‐じダイチャウ‥【大長寺】
- 大阪市都島区東野田町にあった浄土宗の寺。網島の東端にあり、小春、治兵衛が心中した所として有名。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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大長寺
だいちようじ
砂押川の北側、字北山にある。浄土宗。亀鏡山護国院と号する。本尊阿弥陀如来。開山感誉存貞、開基玉縄城主北条綱成。天文一七年(一五四八)の創建と伝える。
「風土記稿」に載る寺伝では、北条綱成は当寺を開くにあたり山林東西三町、南北五町余の寺域と寺田を寄進、永禄元年(一五五八)綱成夫人を寺域に葬るとともに二〇貫文の地を加えたという。天正一八年(一五九〇)四月日に豊臣秀吉は当寺に禁制(県史三)を下し、翌一九年には徳川家康が寺領五〇石を寄進した(「徳川家康寄進状案」鎌倉市史史料編三)。
大長寺
だいちようじ
[現在地名]都島区中野町二丁目
現網島町藤田美術館の敷地内にあったが、明治四二年(一九〇九)に現在地に移転。浄土宗で川向山普照光院と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると慶長一〇年(一六〇五)鯰江備中守が外祖父毛利備前守の冥福を祈念して建立、開山は源蓮社光誉という。「寛政重修諸家譜」には当寺はかつて近江鯰江城(現滋賀県愛知郡)城主であった毛利(森)備前守定春の建立で、彼は死後当寺に葬られたとあり、備前島の名は彼の住地にちなむという。享保五年(一七二〇)一〇月一四日、天満(現北区)の紙屋の主人治兵衛と曾根崎(現同上)の遊女小春が寺の裏で心中、この事件に取材した近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」で有名になった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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