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比企能員 ひきよしかず

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

比企能員
ひきよしかず

[生]?
[没]建仁3(1203).9.2. 鎌倉
鎌倉時代初期の幕府の重臣。通称,藤四郎。源頼朝の乳母で伊豆配流中も頼朝に奉仕した比企尼の甥にあたる。頼朝挙兵以来戦功を立て,信頼を得て重用され,政界の一勢力となった。娘若狭局は頼家の妻となり,一幡 (いちまん) を産んだ。頼朝没後の頼家のうしろだてとして幕府の要職につき,次第に北条氏との対立を深めていった。建仁3 (1203) 年頼家が重病に陥ると,日本国総守護と関東 28ヵ国の総守護が一幡に譲られ,関西 38ヵ国の総地頭は実朝に譲られることとなった。この裏に頼家の母政子や北条時政の圧力のあることを察した能員は,ひそかに北条氏征伐を企てたが発覚,逆に時政に殺され,一幡も死んだ。

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百科事典マイペディアの解説

比企能員【ひきよしかず】

鎌倉初期の武将。通称藤四郎。養母の伯母が源頼朝の乳母であった関係で,挙兵以来頼朝の信任を受けた。能員の室は源頼家の乳母となり,娘の若狭局は頼家の妻として子一幡(いちまん)を産んだ。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

比企能員 ひき-よしかず

?-1203 平安後期-鎌倉時代の武将。
比企尼(ひきのあま)の養子。源頼朝につかえ,頼家の養育係になる。平家追討,藤原泰衡(やすひら)追討に功をたてる。娘若狭局(わかさのつぼね)が頼家と結婚し一幡(いちまん)を生むと将軍の外戚(がいせき)として権勢をふるったが,北条時政と対立し建仁(けんにん)3年9月2日殺された。通称は藤四郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

比企能員

没年:建仁3.9.2(1203.10.8)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。比企藤四郎と称す。父母は不詳。阿波国に生まれたともいう。源頼朝の乳母比企尼の養子。その関係で早くから頼朝に側近として仕える。元暦1(1184)年の信濃への志水(源)義高残党討伐,翌年にわたる西海・九州への平氏追討に従軍。文治5(1189)年の奥州の藤原泰衡追討には北陸道大将軍,翌年の大河兼任の乱には東山道大将軍として出陣する。頼朝の2度の上洛に同行し,上野・信濃国守護などを務める。娘の若狭局は2代将軍源頼家に嫁し一幡を生む。頼朝死後13人の合議衆に加えられ,頼家の外戚としても権勢を振るい次第に北条氏と対立。建仁3(1203)年8月,頼家が危篤になると,北条時政は突如東国28カ国の地頭職と日本国総守護職を一幡に,西国38カ国の地頭職を千幡(源実朝)に譲るとした。『吾妻鏡』によると能員はこれを憤り,病の回復した頼家と時政追討を相談したが,これが北条政子に漏れ,9月2日仏事に事寄せて時政邸で謀殺された。翌日までには比企一族も滅亡した。但し,頼家との時政追討の謀議については『吾妻鏡』に潤色の可能性がある。

(美川圭)

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世界大百科事典 第2版の解説

ひきよしかず【比企能員】

?‐1203(建仁3)
平安末期~鎌倉初期の武将。藤原氏。藤四郎あるいは四郎を称した。《愚管抄》によれば阿波国出身という。あるいは安房国か。伯母比企尼(ひきのあま)は源頼朝の乳母で,能員は比企尼の養子であった。平氏打倒に成功した頼朝は尼の推挙により能員をとりたて,1189年(文治5)の奥州征伐では北陸道大将軍に任じた。能員の妻(渋河兼忠女)や義妹(平賀義信妻,河越重頼妻)はいずれも頼朝の長子頼家の乳母で,能員の娘若狭局は頼家の妻であり,かつ長子一幡を生んでいた。

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大辞林 第三版の解説

ひきよしかず【比企能員】

?~1203) 鎌倉初期の武将。通称藤四郎。源頼朝の乳母比企禅尼の養子。娘若狭局が頼家の側室となり一幡を産むとその外戚として権勢を振るった。のち北条氏討滅をはかったが、逆に謀殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

比企能員
ひきよしかず
(?―1203)

鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝(よりとも)の乳母(うば)であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵(むさし)国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも活躍した。さらに比企尼の娘が2代将軍頼家(よりいえ)の乳母となり、また能員の娘が頼家に嫁して(若狭局(わかさのつぼね))一幡(いちまん)を生んだ。かくして能員は幕府創業以来の功臣として、また頼家の側近としてしだいに重きをなしていった。しかし1203年(建仁3)頼家の重病に際し、後を一幡が継ぐことによる比企氏の勢力増大を恐れた北条氏によって、能員は9月2日謀殺され、続いて一族も滅ぼされた。[山本博也]

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世界大百科事典内の比企能員の言及

【信濃国】より

…義仲の滅亡後鎌倉幕府が成立し,頼朝の信濃国支配が進められた。信濃国は将軍家知行国(関東御分国)とされ,国司に甲斐源氏の加賀美遠光,目代に頼朝の腹心比企能員(よしかず)が補任され,比企能員は守護職を兼務した。鎌倉幕府が将軍独裁制から北条氏を中心とした政治へ移る過程で,1203年(建仁3)には比企事件,13年(建保1)には信濃国御家人泉親衡(いずみちかひら)の乱が起こった。…

【北条時政】より

…平氏滅亡後,頼朝・義経兄弟の対立が激化すると,85年(文治1)義経を追って上洛,守護・地頭設置の勅許を出させ,京都守護として京都の警備,朝廷との折衝に当たったが,翌86年京都守護を後任の一条能保(よしやす)に託し,鎌倉に帰った。99年(正治1)頼朝が没して子の頼家があとを継ぐと,頼家の外戚である比企能員が勢力をもつようになった。時政らはこれに対抗し,頼家がみずから訴訟を裁断するのを停め,時政・義時父子,能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。…

※「比企能員」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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