平安末期~鎌倉初期の武将。藤原氏。藤四郎あるいは四郎を称した。《愚管抄》によれば阿波国出身という。あるいは安房国か。伯母比企尼(ひきのあま)は源頼朝の乳母で,能員は比企尼の養子であった。平氏打倒に成功した頼朝は尼の推挙により能員をとりたて,1189年(文治5)の奥州征伐では北陸道大将軍に任じた。能員の妻(渋河兼忠女)や義妹(平賀義信妻,河越重頼妻)はいずれも頼朝の長子頼家の乳母で,能員の娘若狭局は頼家の妻であり,かつ長子一幡を生んでいた。頼朝の死後,2代将軍頼家の外祖父として勢力の伸張をはかる北条時政らに対し,頼家は比企氏と結んでこれに対抗しようとした。1203年頼家が病に倒れると,つぎの将軍に頼家の弟千幡(実朝)を擁立しようとする北条氏と,頼家の長子一幡につがせようとする頼家・比企氏との対立は頂点に達し,ついに能員は北条時政によって謀殺された(比企氏の乱)。
執筆者:小田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(美川圭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝(よりとも)の乳母(うば)であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵(むさし)国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも活躍した。さらに比企尼の娘が2代将軍頼家(よりいえ)の乳母となり、また能員の娘が頼家に嫁して(若狭局(わかさのつぼね))一幡(いちまん)を生んだ。かくして能員は幕府創業以来の功臣として、また頼家の側近としてしだいに重きをなしていった。しかし1203年(建仁3)頼家の重病に際し、後を一幡が継ぐことによる比企氏の勢力増大を恐れた北条氏によって、能員は9月2日謀殺され、続いて一族も滅ぼされた。
[山本博也]
?~1203.9.2
鎌倉前期の武将。武蔵国比企郡の豪族。上野・信濃両国の守護。藤四郎と称する。源頼朝の乳母比企尼の姉妹の子で,比企氏を継ぐ。将軍家との縁が深く,妻(渋河氏)や義妹ら(平賀義信の妻,河越重頼の妻)は源頼家の乳母,女の若狭局は頼家の妻となった。1189年(文治5)の奥州合戦では北陸道大将軍,翌年の大河兼任(かねとう)の乱では東山道大将軍,頼朝の死後は将軍頼家の外戚として勢威をふるった。1203年(建仁3)頼家が危篤となると,若狭局の生んだ長子一幡(いちまん)の擁立をはかり,弟千幡(実朝)を推す北条氏と対立,同年9月に北条時政の名越亭で謀殺された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…義仲の滅亡後鎌倉幕府が成立し,頼朝の信濃国支配が進められた。信濃国は将軍家知行国(関東御分国)とされ,国司に甲斐源氏の加賀美遠光,目代に頼朝の腹心比企能員(よしかず)が補任され,比企能員は守護職を兼務した。鎌倉幕府が将軍独裁制から北条氏を中心とした政治へ移る過程で,1203年(建仁3)には比企事件,13年(建保1)には信濃国御家人泉親衡(いずみちかひら)の乱が起こった。…
…平氏滅亡後,頼朝・義経兄弟の対立が激化すると,85年(文治1)義経を追って上洛,守護・地頭設置の勅許を出させ,京都守護として京都の警備,朝廷との折衝に当たったが,翌86年京都守護を後任の一条能保(よしやす)に託し,鎌倉に帰った。99年(正治1)頼朝が没して子の頼家があとを継ぐと,頼家の外戚である比企能員が勢力をもつようになった。時政らはこれに対抗し,頼家がみずから訴訟を裁断するのを停め,時政・義時父子,能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。…
※「比企能員」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新