女堀
おんなぼり
一二世紀中頃に、佐位郡域をほぼ庄域とした京都仁和寺法金剛院領淵名(佐位)庄開発のために開削されたと推定される用水遺構。国指定史跡。確認できる範囲では、前橋市上泉地先から佐波郡東村西国定地先まで、延々一二キロ余にわたって赤城山南麓の洪積台地を掘削し、荒砥川・神沢川・粕川などの南流河川を横断して開削されている。施工規模の大きさにおいて土木技術史上注目される。
上泉地先ないし程遠からぬ地点で古利根川(現在の桃木川・広瀬川)から揚水し、荒口地区で荒砥川と交差、前橋市東端の飯土井・東大室地区で神沢川と交差して、石山丘陵で南に迂回する。その後桂川と交差する。現在では桂川本流は遺構を利用して粕川に落されている。やがて佐波郡赤堀町五目牛の北で粕川と交差し、西国定に至る。終末点は福井といわれる湧水池から流下する独鈷田と名付けられた谷田である。第二次世界大戦前には遺構は全体にわたってよく残されていたが、戦後の食料難による大開墾のなかで、赤堀村から西国定地先がまず消滅、その後漸次破壊され、近年の圃場整備事業によって一部を残し多くは地上面では確認しがたくなっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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おんなぼり【女堀】
群馬県前橋市上泉町から伊勢崎市国定町まで続く農業用水跡。赤城山南麓の標高100mの等高線に沿って開削(かいさく)されたもので、同市上泉町の古利根(桃木川)から取水し、旧佐波郡東村西国定にいたる12.75kmの農業用水跡で、1108年(天仁1)の浅間山の爆発により、壊滅的な被害を受けた大間々(おおまま)扇状地末端地域の水田再開発のため、当時この地域を支配していた渕名氏が開削したと推測される。大規模な農業用水であり、大量の人力を投入して水田開発を推進したことを物語る記念物として貴重なことや、原形がそのまま残っており、調査からも重要な遺構が確認されたため、1983年(昭和58)に国の史跡に指定され、1997年(平成9)に追加指定された。現存している遺構や土上げ部分の保全のために公有地化され、2万4000株の花菖蒲を植えて赤堀花しょうぶ園が開園した。JR両毛線前橋駅から永井運輸バス「二之宮神社裏」下車、徒歩約5分。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
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女堀【おんなぼり】
群馬県の赤城山南麓にある中世初期の農業用水遺構(史跡)。前橋市から東(あずま)村(現・伊勢崎市)までの12.75kmにわたって開削されており,規模の大きさにおいて土木技術史上注目される。12世紀中頃に淵名(ふちな)荘開発のために開削されたと推定されるが,通水の形跡はなく,開削計画に不備があったため未完成のまま放置されたと考えられている。なお開削の契機は1108年の浅間山噴火による被災にあり,淵名荘開発は再開発とみられる。女堀の呼称は埼玉県・東京都・長野県などにも残るが,これはかつて使用され,のちに廃された溝(用水路)を意味する場合が多いようである。→九郷用水
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の女堀の言及
【上野国】より
…このような荘園の開発領主として武士(在地領主)が各地に根をおろした。淵名荘の開発に関係すると推定される女堀という巨大な用水堀が,前橋市石関町から佐波郡東村西国定まで12kmにわたって掘られたが,なんらかの事情で工事途中で中断し,現在遺構が残っている(国指定史跡)。
[武士団の展開]
治承・寿永の内乱期に源頼朝に属した上野武士は鎌倉御家人,荘郷の地頭として各地に根をおろした。…
※「女堀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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