浅間山(読み)アサマヤマ

デジタル大辞泉 「浅間山」の意味・読み・例文・類語

あさま‐やま【浅間山】

群馬・長野両県にまたがる三重式活火山。標高2568メートル。天明3年(1783)の大爆発では多数の死者を出し、溶岩流は鬼押出おにおしだしなどを形成した。あさまのたけ。[歌枕]

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共同通信ニュース用語解説 「浅間山」の解説

浅間山

群馬、長野両県にまたがる活火山で、標高2568メートル。江戸時代の1783年にあった大規模噴火では死者千人以上、倒壊家屋が千棟以上になり、「天明の噴火」として歴史に残る。活発な噴火活動が継続しており、1941年に年間398回、54年には287回の噴火があった。2009年の噴火では、火山灰が関東地方南部まで到達した。

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精選版 日本国語大辞典 「浅間山」の意味・読み・例文・類語

あさま‐やま【浅間山】

  1. 群馬、長野両県境にそびえる三重式火山コニーデ。黒斑(くろふ)山、牙(ぎっぱ)山、剣が峰の外輪山に囲まれ、中央火口丘の前掛山、浅間山がある。天武天皇一四年(六八五)の噴火記録があり、以降三十数回。天明三年(一七八三)の活動は特に知られ、鬼押出岩(おにおしだしいわ)を形成。標高二五六八メートル。歌枕。あさまがだけ。あさまのだけ。

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日本歴史地名大系 「浅間山」の解説

浅間山
あさまやま

標高二五四二メートル。長野(軽井沢かるいざわ町・御代田みよた町・小諸こもろ市)と群馬(吾妻あがつま嬬恋つまこい村)両県にまたがる三重式コニーデ型の活火山で、上信越高原国立公園に属す。第一外輪山に黒斑くろふ(二四一四メートル)けんみね(二二八八メートル)、第二外輪山に前掛まえかけ(二四一〇メートル)があり、その間の火口原を湯の平ゆのたいらという。蛇堀じやぼり川は湯の平に源を発し、第一外輪山を浸食して小諸市内で千曲川に流入する。第二外輪山と中央火口丘の間を無限の谷むげんのたにという。火口はしだいに東に移ってはいるが、浸食のあまり進まぬ幼年期地形で、山容は優美。小浅間こあさま石尊せきそん山・はなれ山等の寄生火山をもつ。火山灰と礫からなる広大な裾野をもち、火山泥流は、南は追分原おいわけはらから小諸市の千曲川畔に及ぶ。火山活動のため森林は標高一一六〇メートル以上に及ばず、耕地も標高一二〇〇メートル前後、水田は九〇〇メートル前後まで開かれている。

浅間の呼称は、古来より変化なく、わずかに「中右記」の天仁元年(一一〇八)に「国中有高山称麻間峰」とあり「麻間」と記す。「中右記」はまた「朝間」とも記す。都を遠く離れた辺地、東国への道筋に屹立して煙を噴く山として詩歌に詠われてきた。「伊勢物語」第八段には、

<資料は省略されています>

とある。歌枕として「能因歌枕」等の歌学書にもあげられ、また次のような歌がある。

<資料は省略されています>

常に煙を噴く高山で、山岳信仰の対象ともされている。追分(現軽井沢町追分)にある浅間せんげん神社は、大山祇神・磐長姫神二神を祀るが、浅間山遥拝の里宮で、古くは山宮が湯の平にあったと伝え(軽井沢町志)借宿かりやど(現軽井沢町借宿)遠近宮おちこちのみやは、元来拝殿だけであり、正面の浅間山を本体とした遥拝所であった(北佐久郡志)。また「神道集」には、白山信仰にもかかわるもののごとく、「抑、白山権現ト、北陰加賀ノ国、白山雪山ニ跡垂下ヘリ、(中略)当社権現ハ惣〆五万八千ノ采女皆鶏鳥也、信濃ノ浅間モ同ク此御神ナリ云々」とみえる。


浅間山
あさまやま

群馬県嬬恋つまごい村と長野県北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町・御代田みよた町、小諸市にまたがる第四紀複合成層(三重式コニーデ)型の活火山で、標高二五四二メートル。第一外輪山は西方の黒斑くろふ(二四一四メートル)きつぱ(二〇四〇メートル)けんヶ峰(二二八八メートル)の半分ほどが残っており、第二外輪山の前掛まえかけ(二四九三・四メートル)との間に火口原湯の平ゆのたいらがある。中央火口を取囲んでかま山とよばれる内輪山があり、直径三〇〇―三五〇メートル、深さ一〇〇―二〇〇メートルの火口は「おかま」とよばれる。南斜面の石尊せきそん山、東側の小浅間こあさま山・はなれ山は寄生火山である。浅間高原とよばれる標高八〇〇―一四〇〇メートルの広い裾野をもち、南側を追分おいわけ原、北側を六里ろくりヶ原と称する。上信越高原国立公園の一角を占める。噴煙をあげつつ雄大な姿をみせているが、ときには激しい噴火をした。「日本書紀」天武天皇一四年(六八五)一月条に「是月、灰信濃国に零り、草木皆枯」とみえる。「伊勢物語」第八段に「信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て」として「信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ」の歌が載る。浅間・浅間嶽・浅間山は「能因歌枕」などの信濃にあげられる歌枕で、多くの歌に詠じられた。

<資料は省略されています>

総社本「上野国神名帳」の総社大明神鎮守のなかに従一位浅間大明神が載る。山岳信仰の対象ともされ、とくに信州側では諏訪明神とのかかわりが考えられている。また、赤木文庫本「神道集」(白山権現事)に「抑、白山権現ト(中略)信濃ノ浅間モ同ク此御神ナリ云々」とみえ、「加沢記」によると四阿あずまや(白山)と浅間山の権現は一体であったという。

噴火の際の火山灰は上州側に降り被害をもたらしてきた。天仁元年(一一〇八)七月二一日には大噴火があった。上野国司の解状によって知られる被害は「而従治暦間峯中細煙出来、其後微々也、従今年七月廿一日猛火焼山嶺、其煙属天沙礫満国、燼積庭、国内田畠依之已以滅亡」(「中右記」天仁元年九月五日条)と国内の田畠が壊滅するほどであった。大治四年(一一二九)二月一七日、上野国から提出された「条事」が朝廷において審議された(長秋記)。上野国司(上野介顕俊)の申請によると、前年灰砂(火山灰)が降り荒廃がはなはだしいので本年の貢納物を免除してほしいとのことであったが、朝廷では前例にないと処理されている。天仁元年の噴火では火山灰による被害が大きかったため、済物免除になっていた。


浅間山
せんげんやま

伊香保町の南東部にそびえる榛名山系の寄生火山で標高一一九四・四メートル。高さでは相馬そうま(一四一一メートル)などには及ばないが、当郡北部・渋川市方面から見ると榛名山系の前面にそびえたち、山麓住民の信仰の中心となってきた。水沢みずさわ山ともいい、東麓には坂東三十三ヵ所一六番の水沢観音がある。登山路は水沢観音から登る東コースと伊香保の温泉街または榛東しんとう村から登る西コースの二つがある。山頂は東西二つの小峰に分れ、西峰がやや高い。東峰頂上には石仏像七体が南向きに並び、西峰頂上には石宮が二つある。

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改訂新版 世界大百科事典 「浅間山」の意味・わかりやすい解説

浅間山 (あさまやま)

長野県北佐久郡と群馬県吾妻郡にまたがる複式活火山。標高2568m。西は車坂峠をへだてて烏帽子岳火山群に接するが,南と北には広く裾野をひく。その成長史は複雑である。最初富士山型の成層火山黒斑(くろふ)火山が比高2000mの円錐形の山体をつくった後,大爆発により東半分が崩壊し,湯の平火口を生じた。約2万年前に黒斑火山の火口の東側で噴火が始まり溶岩流の扁平な山体(仏岩火山)ができた。1万1000年前,仏岩火山で大噴火があり,軽石と火山灰を噴き上げ火砕流として南・北裾野に広がった。現在の浅間山の主体を占める前掛山(2521m)は数千年前に成長を開始し,数百年ごとに大噴火をくりかえしている。最後の大噴火は1783年(天明3)に起こり,北関東全域に軽石や火山灰を降らせたほか,吾妻(あがつま),鎌原(かんばら)両火砕流を北麓に流下させた。鎌原火砕流はとくに高速で破壊力が大きく,その通路に当たった鎌原村は全村数mの厚さの砂礫質堆積物に埋められ,周辺一帯も多大な被害をうけた。鎌原火砕流噴出直後に山頂から鬼押出し溶岩流が北斜面を流下した。溶岩流の厚さは30m以上,幅最大1.3km,長さ5.5kmあり,表面は大小の岩塊が積み重なりすさまじい景観を呈する。天明の噴火後,山頂火口は二重となり,前掛山・東前掛山の外輪山の内側に比高170mの中央火口丘釜山(2560m)が生じた。その頂部には直径350m,深さ150mの大火口があり,現在でも活動している。その活動様式はいわゆるブルカノ式爆発で,数十万tもの岩塊が秒速100m以上の初速度で火口から放出されることがある。このような爆発のときには直径50cmの火山弾が火口から4kmの地点に落下したこともあり危険である。現在では東腹の峰の茶屋に東大火山観測所があり,常時地震や地殻変動の観測がなされ,活動がはげしくなると登山が規制されるなどの対策がとられている。
執筆者:

鈍頂円錐形の大きな山体の上部は関東平野の北西部からも望める。浅間山は長野,群馬,新潟の3県境付近に集まる火山群の一つ烏帽子岳火山群の東端にあたる。同火山群はいわゆるフォッサマグナの東縁に沿い,西から東に順次噴出した多数の火山体から成り,浅間山の形成はその中でもっとも新しく,絶えず噴煙の見られる活火山である。浅間山の中では黒斑山,前掛山,釜山の順に噴出点が東に移動してきた。裾野は南北35km,東西20kmの範囲に及び,北側を姥ヶ原,六里ヶ原,南側を追分原,地蔵ヶ原と呼ぶ。裾野の北端は吾妻川に,南西端は千曲川に達する。東端を限る鼻曲(はなまがり)火山(角落(つのおとし)火山)は開析された古い火山であるが,基盤の第三紀層の高度が浅間山で1500m付近にあるのに比べて著しく低く,山地の高さも約1000m低い。裾野は起伏が小さく一連に平滑にみえるが,溶岩,火山砂礫,泥流など堆積時期と性質の異なる数地域に分かれている。東側の裾野は起伏がやや大きく幅が狭いが,利根川水系と信濃川水系の分水界となる。水系の発達は火山体を刻み始めた初期の段階にあり,鼻曲山に発し南麓を流れる湯川は火山体東・南斜面に発する支流を集め蛇行しながら千曲川に注ぐ。

 植生は火山活動の影響をうけやすい北東斜面では高山草本帯が標高1400m付近まで異常に低下しているのが特徴である。一方,影響をうけにくい黒斑山の斜面では他山地と同様2400m付近までコメツガ,シラベなど針葉樹林帯が見られる。またカラマツの人工林の面積が大きく景観上の特徴となっている。

 裾野は標高1000m前後の部分が広範囲を占めるため,夏の気候は冷涼で,雄大な景観とともに高原保養地としての人気が高い。1886年南東麓の軽井沢(通称〈旧軽井沢〉)がイギリスの宣教師A.C.ショーによって避暑地として着目されて以後,旧軽井沢を中心に別荘地開発が進んだが,それ以前は中山道など古い街道沿いにまばらに集落が見られたにすぎなかった。1928年,草軽電鉄(1960廃止)の駅が設けられてから北軽井沢(群馬県長野原町)が別荘地として発展,60年代半ばごろから中軽井沢(旧,沓掛),西軽井沢(御代田町),さらに人工の塩沢湖を中心に南軽井沢がそれぞれ急速に観光別荘地として開発が進んだ。ホテル,ゴルフ場,スケートリンク,テニスコートなど観光施設が,日本の他の観光地にさきがけて整備されてきた。隣接する高峰高原,草津,万座を含めて広く上信越国立公園に指定されており,広域観光地の一部をなす。千ヶ滝,白糸ノ滝,星野(炭酸泉,45℃)・塩壺(炭酸泉,47℃)・小瀬(単純泉,50℃)温泉,鬼押出し溶岩など局地的観光資源にも事欠かない。裾野の広い部分は近世には薪炭林や萱刈場などとして利用されるにすぎなかったが,農地としての開発はとくに戦後に目立って進んだ。北側の中原開拓,浅間開拓,北軽開拓(応桑付近),南側の南原,大日向など,高い所で1300mまで耕地や牧草地が開け集落が定着し,おもに高冷地野菜の生産や酪農に従事する。東麓には育成牛放牧場の浅間牧場,南麓には草地試験場の牧草地も広がる。

 なお,旧軽井沢近くの離山(1256m)は浅間火山より古い溶岩円頂丘,山腹の小浅間山(1655m),石尊山(1668m)は寄生火山だが,いずれもなだらかな斜面上に変化をみせる小突起である。
執筆者:

浅間山の噴火をいう。史上に現れた大きな噴火では,685年(天武14)1月に信濃に灰が降り草木がみな枯れたといい,1108年(天仁1)7月には猛火が山嶺を焼き,その煙は天に沖し,上野国では砂礫が国に満ち灰燼は庭に積もり,国内の田畑はことごとく滅亡したという(《中右記》)。これは有史以来の最大の噴火であったが,記録類がもっとも多く残るのは1783年(天明3)の噴火で,〈天明の浅間焼け〉と呼ばれている。

 この年の4月8日または9日に噴煙が立ち始めたが,しばらくは小噴火の繰返しであった。5月26日に活動が激しくなり,6月18日には北側の大笹,鎌原方面に火山礫が10cmも積もった。7月になると大爆発が連続したが,7日・8日に最後の大爆発となった。7日夕刻に噴出した火砕流は北の斜面を流下して北麓の密林地帯を埋め尽くした。これは吾妻火砕流と呼ばれる。8日の午前10時ごろに始まった爆発は,北麓へ高速の土石流のような現象を生じて流下し,鎌原村をはじめ多くの集落を破壊し埋没させた。これは鎌原火砕流と呼ばれる。最後に火口から流れ出した溶岩流は粘性流体で,その流速もゆるやかなもので,遠くまでは流下せず,今日〈鬼押出し〉と呼ばれる形状を示している。鎌原火砕流によって,火口から13kmほどの鎌原村では93軒全部が流失したのをはじめ,芦生田村(43軒),南牧村(24軒),大前村(81軒),西久保村(40軒),羽根尾村(63軒)等全戸流失した村も少なくない。これは火砕流によるものばかりではなく,土石が吾妻川を埋め,やがて鉄砲水となって流下したので,下流域の村落にも被害が多く出たのである。日光例幣使街道の五料宿,柴宿辺でも人家の軒先まで泥に埋まった。被害は55ヵ村に及び,流死人1624人,流失家屋1151軒ともいうが,史料によって差がある。鎌原火砕流は途中で地表を掘り起こし,浸食しつつ流下したので,鎌原地域では数mの堆積物のうち当時噴出したものは数%にすぎず,大部分は山麓地表面にあった古い岩石であったので,熱泥流と呼ぶより〈乾燥粉体流〉と呼ぶのが適当ともいわれる。この噴火による軽石は偏西風によって東南東に流れ,高崎から伊勢崎,本庄方面にも及んで,軽井沢や碓氷峠では1.5m,本庄辺でも10cm前後に達し,田畑に大きな被害を残した。この年上州に起きて信州まで入った一揆(天明上信騒動)はこの噴火による凶作のためとされ,また成層圏に達して長く滞留した火山灰によって日射量が減じ,天明の冷害(天明の飢饉)の一因ともいわれる。鎌原等は幕領であったので,幕府ではその復興には熊本藩に御手伝普請を命じ,同藩は9万6900両を負担し,その大部分を領民に献金させた。
執筆者:

天明年間の大噴火のあと,1869年(明治2)に再び浅間山の噴火活動が始まると,政府は北小路神祇大祐と神祇官とを軽井沢町追分の浅間神社に派遣して被害のないよう祈願させた。噴火が与える火山への畏敬と恐怖の念は,各地の火山系山岳に認められるように山岳信仰の原初的形態の一つであり,〈あさま〉という名称も本来は活火山の一般名称であったと推定されている。この浅間山には古くから浅間大(明)神が信濃,上野双方の側にまつられ,近世には信州塩野の真楽寺(真言宗),嬬恋村延命寺(天台宗)がそれぞれ別当寺をつとめ配札を行っていた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅間山」の意味・わかりやすい解説

浅間山
あさまやま

長野・群馬県境にそびえる三重式の成層・円錐火山(えんすいかざん)。標高2568メートル。おもに安山岩からなる。有史以後(685年以後)も近年までしきりに噴火を繰り返してきた日本の代表的活火山。那須(なす)、富士両火山帯が合する位置にあるが、普通、前者に属させる。更新世(洪積世)末期、数万年前にまず成層・円錐火山が形成されたのち、大規模な水蒸気爆発でその東半が吹き飛ばされ、カルデラを生じたが、同山の西側はいまも第一外輪山(黒斑山(くろふやま)など)として残存する。その後、南側山腹に寄生火山の石尊山(せきそんざん)(溶岩円頂丘)を生じた。約2万年前、そのカルデラ内に粘り強い石英安山岩デイサイト)質の仏岩溶岩流(ほとけいわようがんりゅう)が噴出して扁平な楯状(たてじょう)火山ができ、その東方には石英安山岩質の寄生火山、小浅間(溶岩円頂丘)を生じた。約1万1000年前、大爆発して石英安山岩質の火山砕屑(さいせつ)物を関東北部一帯に厚く降り積もらせ、かつ、同質の軽石流が火山の南北両側の麓(ふもと)を広く覆った。現世に入り、約5000年前にカルデラ内で噴火活動が再開され、第二外輪山、前掛山(まえかけやま)が形成されてきた。

 有史以後の二大噴火は1281年(弘安4)と1783年(天明3)におき、ともに大爆発、火砕流、溶岩流が発生し、噴出物総量は前者は約30億トン、後者は約10億トン。後者では死者1152人を出した。鎌原村遺跡(かんばらむらいせき)はそのときのものである。天明大噴火後、前掛山火口内に中央火口丘の釜山(かまやま)が生まれた。釜山火口はほぼ円形で直径約350メートルであるが、深さは絶えず変動し(0~250メートル)、活動期には浅くなる。爆発型噴火が特徴で、噴出物総量数十万立方メートル、噴煙を山頂上数千メートル以上にあげ、噴石、降灰、爆風などでしばしば惨害を出す。

 1911年(明治44)日本最初の火山観測所を震災予防調査会が設け、1922年(大正11)創設の軽井沢測候所(その後、軽井沢特別地域気象観測所と浅間山火山防災連絡事務所に改組)と、1933年(昭和8)創設の東京大学地震研究所浅間火山観測所がその観測研究を受け継いだ。火山防災連絡事務所は火山の活動データを収集している。山頂部は裸地であるが、山腹にはカラマツ、アカマツ、シラカンバなどの森林や低木草原が広がり、裾野(すその)は開拓され、軽井沢、北軽井沢の高原別荘地帯がある。夏の避暑、春秋の行楽、冬のスケートと来遊者が絶えない。風光に恵まれ、野鳥に富み、上信越(じょうしんえつ)高原国立公園に属する。JR信越本線(現、しなの鉄道)中軽井沢、信濃追分(しなのおいわけ)、小諸(こもろ)と、JR吾妻(あがつま)線長野原草津口の各駅から登山路が通じ、約4時間で登頂できたが、1973年(昭和48)火山活動のため入山が規制された。近年、小諸を登山口とする一部コースの規制が緩和されたが、頂部は常時立入り禁止になっている。熔岩樹型は国指定特別天然記念物。噴火対策用の火山シェルターをもつ小諸市(長野県)の火山館、長野原町(群馬県)の浅間火山博物館がある。車坂峠にある小諸市浅間連峰自然観察センターには浅間山の歴史や噴火についての資料が展示されている。

[諏訪 彰]

『八木貞助著『浅間山』(1936・信濃毎日新聞)』


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百科事典マイペディア 「浅間山」の意味・わかりやすい解説

浅間山【あさまやま】

群馬・長野県境,軽井沢町北西方にそびえる三重式成層活火山。最高点は中央火口丘の浅間山で,標高2568m,頂上に御釜と呼ばれる直径350mの噴火口がある。その西に中央火口丘の前掛山,周辺に外輪山の黒斑(くろふ)山,牙(ぎっぱ)山,剣ヶ峰,寄生火山の小浅間山があり,全山体が複輝石安山岩からなる。685年以来約50回の噴火記録が残り,現在も噴煙を上げ,最も活動的。火山観測も1911年以来続けられ,東山麓には東大の火山観測所がある。北斜面の鬼押出しは1783年の大噴火による。展望にすぐれ,一帯は上信越高原国立公園に属する。
→関連項目女堀鎌原村群馬[県]佐久盆地高峰高原天明上信騒動天明の飢饉長野原[町]日本百名山御代田[町]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅間山」の意味・わかりやすい解説

浅間山
あさまやま

長野県群馬県境にある円錐形の三重式火山(→複式火山)。活火山で,常時観測火山。最高峰は中央火口丘で標高 2568m。山腹に小浅間,石尊山の寄生火山をもつ。第1外輪山は黒斑山,剣ヶ峰として西部にだけ残る。黒斑山と第2外輪山の前掛山との間に湯の平火口原(→火口原)がある。中央火口丘と第2外輪山との間にも狭い火口原をもち,無限の谷という。噴火口は直径約 450mの円筒形で,お釜と呼ぶ。お釜からの爆発はしばしばみられ,史上最大の噴火は天明3(1783)年の天明浅間山噴火で,天明の浅間焼けとして知られる。その情景はオランダ商館長イサーク・ティチングのフランス語訳『将軍列伝』(1820)の挿図としてヨーロッパにも紹介された。近年も小規模な噴火が続いている。山体は複輝石安山岩および火山砕屑物からなる。北側に六里ヶ原,南側に追分原の広大な裾野をもち,大部分は森林と原野である。北斜面に天明浅間山噴火の際に溶岩の噴出でできた鬼押出岩が,また北東斜面の浅間高原に浅間牧場がある。上信越高原国立公園に属し,周囲に軽井沢(→軽井沢町),北軽井沢などの高原別荘地がある。登山基地は中軽井沢,信濃追分(追分),小諸(→小諸市),嬬恋村大笹などの集落。

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知恵蔵 「浅間山」の解説

浅間山

強い爆発(ブルカノ式噴火)をする日本の代表的な活火山で、長野と群馬の県境にある。2004年9月1日に、大きな爆発音と共に山頂火口で爆発が起き、直径最大3cmの高温の噴石が火口から約6kmの範囲に飛び、降灰は福島県北部の太平洋沿岸まで見られた。同9月14〜18日に多量の降灰があり、火口底に新しい溶岩が出現したが、12月9日の小噴火を最後に、噴火活動は区切りがついた。浅間山の有史以降の噴火で特に大規模なのは、1108年の天仁の噴火と1783年の天明の噴火。共に初期に大量の火山灰やスコリアを噴出し、火砕流を山麓まで流した後、溶岩流を出した。天明の噴火では、火砕流で当時の鎌原村がほぼ全滅した。19世紀末から1960年頃までは、噴火が頻繁に繰り返されたが、20世紀後半以降は噴火の頻度が低かった。1973年には04年と同程度の噴火が発生した。

(井田喜明 東京大学名誉教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

知恵蔵mini 「浅間山」の解説

浅間山

長野・群馬県境、軽井沢町の北西にある活火山。古い火口の中に新しい火口が二度にわたりできた「三重式火山」としても有名。標高2568メートルで、周辺に前掛山・黒斑(くろふ)山・牙(ぎっぱ)山・剣ヶ峰・小浅間山などを擁する。山頂火口は常時噴気しており気象庁の常時観測火山となっている。1108年の「天仁の噴火」、1783年の「天明の噴火」など大規模な噴火を幾度も起こしてきた。20世紀後半以降は噴火活動が沈静化したが、2004年9月に大噴火を起こしている。15年6月16日、ごく小規模な噴火が起きたもようであることを気象庁が伝えた。

(2015-6-18)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

事典 日本の地域遺産 「浅間山」の解説

浅間山

(長野県北佐久郡軽井沢町;群馬県吾妻郡嬬恋村)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「浅間山」の解説

浅間山

(群馬県吾妻郡嬬恋村・長野県北佐久郡軽井沢町・御代田町)
ぐんま百名山」指定の観光名所。

浅間山

(群馬県・長野県)
日本百名山」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「浅間山」の解説

浅間山

群馬県、浅間酒造株式会社の製造する日本酒。純米吟醸酒、純米酒などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の浅間山の言及

【武蔵国】より

…【原島 礼二】
【中世】
 1031年(長元4)に終わる平忠常の乱は南関東の諸国を荒廃させたが,忠常の父忠頼が住んでいた武蔵国もその例外ではなかった。そして1108年(天仁1)の浅間山大爆発は,上野ばかりでなく武蔵国北部一帯に大きな被害をもたらした。最近の研究によれば,この爆発は江戸時代の天明の噴火の規模をはるかに超え,浅間山と霞ヶ浦を結ぶ線を長軸としたレンズ状の地域に分厚い降灰をもたらし,これにともなう河川のはんらんとともに,利根川・荒川流域の水田はとくに深刻な影響をうけたと考えられる。…

※「浅間山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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