明治政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言の通称。1872年(明治5)10月2日と9日に太政官達(だじょうかんたっし)第295号と司法省達第22号として布告された。同年7月のマリア・ルーズ号事件で、明治政府は、ペルーに拉致(らち)されかけた清(しん)国人苦力(クーリー)の本国返還を計った。その裁判中にペルー側から遊女の年季証文を突きつけられた政府は、窮余の策として、これらの布告を出した。布告では「娼妓芸妓は人身の権利がなく牛馬と同じで、牛馬に借金返済は迫れない」としたので、「牛馬解きほどき令」ともいわれた。同令は女性の基本的人権への認識や解放後の更生対策を伴わなかったため、翌年の東京府令第145号をはじめとする貸座敷(娼妓の営業に妓楼の座敷を貸した)制度の発足で有名無実化したが、この後各地で始まる廃娼運動の導火線ともなっていった。
[滝澤民夫]
『市川房枝編『日本婦人問題資料集成 第1巻 人権』(1978・ドメス出版)』
人身売買を禁じた太政官達第295号。1872年(明治5)10月2日布告。年季奉公等の名目で売買同様のことが行われてきたのを禁じ,奉公は年限を定め,娼妓芸妓等を解放するよう命じている。続いて出された司法省達第22号では〈娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス〉として,過去の借金を返すよう求めることはできないと定めている。このため〈牛馬切りほどき令〉といわれた。
この布告に先だつ同年7月,横浜に碇泊中のペルー船に監禁中の清国人苦力230人を政府が救出,清国に返した〈マリア・ルース号事件〉が起きた。この事件の経過の中でペルー船の弁護士が日本の遊女の年季証文を示して反撃した。このため,政府は〈娼妓解放令〉を布告することとなった。しかしこれは人権回復のための解放とはいえなかったので,たちまち当人の望みによる渡世ならば許可することになった(1872年10月の東京府令第704号,第707号など)。解放令は骨抜きとなり,売娼制度は廃止とならずむしろ隆盛に向かった。
執筆者:井手 文子
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…日本では一般に公娼をさすことが多く,ことに明治以後は官制用語となったため,それ以前の遊女と対比して用いられている。しかし明治政府も,1872年(明治5)10月のいわゆる娼妓解放令以前は江戸時代同様に遊女とよんでいたし,以後も大阪府が遊妓と称したように,初めから娼妓に統一していたわけではない。とくに娼妓の取締りが各府県に任されていたため,名称のみならず就業最低年齢,年季,居住免許地,営業方法などには多少の差があった。…
…とくに,近世において一部の芸能が遊里を舞台に著しく発達したことは,遊里の社交機関的性格によるといわれ,ほかに社交場を形成しえなかった特殊状況とともに注目される。 維新後,明治政府は1872年(明治5)に〈娼妓解放令〉を公布したが,実際には公娼制を整備して強化を図った。しかし,情緒的要素の低下した公娼は有力な客を獲得することができず,大正期を境に数字上でも私娼が上回るに至った。…
…また売春者の更生や,外国人の売春宿についての情報交換と本国送還についても定めている。 日本ではマリア・ルース号事件を契機に1872年(明治5)の〈娼妓解放令〉によって公娼制は廃止されたが,たちまち当人の望みにより渡世する娼妓と貸座敷として復活した。これに対して婦人矯風会や救世軍などの団体が廃娼をとなえ,これに伴って82年群馬県会が公娼廃止令を布告,93年実施した。…
…本件は日本が当事者となった国際裁判の最初の事例である。なお,この事件に関連して,ペルーが日本の娼妓(しようぎ)制度を人身売買と弁じたことにより,1872年10月太政官布告〈娼妓解放令〉を生む契機となった。【牧田 幸人】。…
※「娼妓解放令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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