日本大百科全書(ニッポニカ) 「学生演劇」の意味・わかりやすい解説
学生演劇
がくせいえんげき
アマチュア演劇、学校演劇の一分野。一般に、大学生による演劇活動をいい、小学生・中学生による学校劇、高校生による高校演劇と区別される。学校劇は児童教育の一環として教師の直接指導による表現活動を目的とし、高校演劇は教師と生徒の共同作業による演劇活動を主とするが、学生演劇は、学生の自主的運営によるクラブ活動の一部門として、文化・芸術運動を目ざす社会的広がりをもつ。したがって専門(職業)劇団とのつながりも強く、明治末以来、新劇団の主要な供給源の一つとなっている。また専門演劇人の養成を目的とする大学演劇科の一部では、専門劇団に近い水準を示すこともある。とくに大学演劇科の数の多いアメリカでは、付設の実験劇場を拠点に地域のコミュニティ・シアターの役割を果たしている。
[大島 勉]
学生演劇の歴史
日本における学生演劇の歴史は、ほぼ四つの時期に分けて考えられる。
第1期(明治末~大正期)は、初期の新劇運動に随伴して生じた開花期である。とくに文芸協会(1906設立)、自由劇場(1908設立)をはじめとする新劇運動への学生の参加および支援は、日本の近代劇推進の大きな力となるとともに、以後の学生演劇の方向を決定づけた。これは築地(つきじ)小劇場にまで及び、たとえば土方与志(ひじかたよし)、友田恭助(きょうすけ)などは学生演劇出身といってよい。
第2期(1925~45)は空白期であり、第二次世界大戦前における左翼演劇(プロレタリア演劇)への同伴者的な支援活動、戦時中における児童劇・農村演劇などへの一部の参加があげられるにすぎない。わずか戦時中の例外として、慶応義塾大学の新演劇研究会に拠(よ)った加藤道夫、芥川比呂志(あくたがわひろし)らがいる。
第3期(1945~60ころ)は高揚期であり、戦後の民主化の気運を受けて空前の高まりと広がりをみせ、自立演劇(職場演劇)の活況と並んで、新劇復興を支える一翼を担った。新劇団に倣ってスタニスラフスキー・システムによる演技体系が主流を占め、学校単位を超えた劇団相互の交流も活発で、専門劇団に匹敵する大作が競って上演されるとともに、福田善之(よしゆき)(東京大学演劇研究会)とふじたあさや(早稲田(わせだ)大学自由舞台)の合作『富士山麓(さんろく)』(1954)のような意欲作も生まれた。1953年(昭和28)浅利慶太(あさりけいた)らが結成した劇団四季はこの期の慶大・東大の学内劇団を母胎とする。
第4期(1960ころ~80なかば)は転換期である。1960年代に入ると、社会情勢の変化に伴って学生演劇も大きな曲り角を迎え、独自の方向が模索された。既成のレパートリーに頼らず、創作戯曲が求められたのもその一端である。さらに60年代後半になると、学生劇団を主要母胎とする小劇場(アンダーグラウンド演劇)が急速に台頭し、「反新劇」を旗印にやがて一大勢力を形成するに至った。たとえば状況劇場、早稲田小劇場(現SCOT(スコット))は、それぞれ明治大学、早大の学生劇団を起点とする。
[大島 勉]
学内から学外へ――多様化の時代
これに刺激されて学生演劇のあり方も大きく変貌(へんぼう)し、さらに1970年代後半から80年代にかけて、これを追う第二、第三世代による小劇団が相次いで生まれ、学内を拠点にした学外活動によって、専門劇団に対抗する多様な展開をみせるようになった。つかこうへいの劇団暫(しばらく)・つかこうへい事務所、野田秀樹(ひでき)の劇団夢の遊眠社、如月小春(きさらぎこはる)の劇団綺畸(きき)が、それぞれ早大、東大、東京女子大の学内劇団から生まれた。しかし90年代に入ると、小劇場運動の鎮静化とともに学生演劇も落ち着きをみせ、かつての特定の大学を拠点ないし主軸とする劇団構成や演劇活動は分散化の傾向にあり、また専門劇団と学生劇団の区別は薄れてきた。学生演劇の用語はしだいに空語化しつつあるといって過言でない。
[大島 勉]
『下村正夫著『新劇』(岩波新書)』▽『菅孝行著『戦後演劇』(1981・朝日出版社)』▽『扇田昭彦編『劇的ルネッサンス』(1983・リブロポート)』▽『扇田昭彦著『日本の現代演劇』(岩波新書)』▽『大笹吉雄著『現代日本演劇史』全8巻(1985~ ・白水社)』▽『佐伯隆幸著『現代演劇の起源――60年代演劇的精神史』(1999・れんが書房新社)』