日本の城がわかる事典 「安田城」の解説 やすだじょう【安田城〈新潟県阿賀野市〉】 新潟県阿賀野市(旧北蒲原郡安田町)にあった平城(ひらじろ)。戦国時代に揚北衆と呼ばれた国人衆の一つである安田氏の居城。上杉謙信の武将として活躍し、第四次川中島の戦いで謙信から血染めの感状を受けた安田長秀は、同城の城主だった。12世紀末の鎌倉幕府の成立期に、地頭として白河荘(新潟市北区付近)に入封した伊豆の大見氏が築いた居館が安田城の起源とされる。越後に根づいた大見氏は安田氏を名乗るようになった。安田城はこの居館に外郭や堀が増設されて、戦国時代に本格的な城郭となったと推定されている。1598年(慶長3)に、謙信の後を継いだ越後国主の上杉景勝が会津に移封されると、安田氏も会津に移住した。その後、安田城には本庄城(のちの村上城)に入城した村上頼勝配下の吉武右近が入り、1618年(元和4)には村上城に入城した堀直寄の属城となったが、1622年(元和8)に幕府から発布された一国一城令により廃城となる。しかし、1639年(寛永16)、直寄の次男直時を藩主とする安田藩3万石が成立したことにより、安田城は陣屋として再興され、藩庁が置かれた。安田藩はその領地が阿賀野川によって2つに隔てられ、また、安田城下は強風によりたびたび大火に見舞われたことから、第2代藩主の直吉(直時の子)の代の1644年(正保1)、幕府に新たな城(村松城)の建設を願い出て許可され、藩庁を村松城に移したことにより、安田城は再び廃城となった。現在、かつての安田城の主郭があった場所は交通公園(児童公園)に、その周辺の城域には体育館や野球場などの公共施設が整備されている。外郭部分などの遺構が一部失われているものの、主郭周辺を中心に内堀(水堀)や土塁などが比較的良好な状態で残っている。JR磐越西線五泉駅からバス。またはJR羽越本線水原駅からバスで保田支所前下車。磐越自動車道安田ICから車15分。 やすだじょう【安田城〈新潟県柏崎市〉】 新潟県柏崎市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。越後毛利氏の毛利時元を祖とする北条(きたじょう)氏から分かれ、鵜川荘安田条を領地とした安田氏の居城である。北条城とともに越後毛利氏の居城として知られている城で、比高30mほどの丘の上に築かれていた。同城は安田氏初代の安田憲朝(北条憲広の次男)が築城したともいわれるが、築城年代は不明。安田氏は越後守護の上杉氏と対立して越後国内に動乱が続いた守護代の長尾為景(上杉謙信の父)の代から、ごく一部の時期を除き長尾氏に味方し、謙信の時代にも臣下として仕えた。1554年(天文23)に、本家にあたる北条氏の当主の北条高広が甲斐の武田信玄と内通して謙信に対して謀叛を起こしたが、その謀叛をいち早く謙信に伝えたのは、この城の城主の安田景元だった。謙信の死後に起こり、越後を二分する動乱となった御館の乱では、城主の安田顕元と弟能元は上杉景勝に味方して戦功を挙げた。顕元の後を継いだ能元は1583年(天正11)の新発田重家の乱で重傷を負ったが、1587年(天正15)には新発田城の搦手を攻めて城内に侵攻して戦功を挙げた。1598年(慶長3)の上杉景勝の会津転封にともない廃城となった。現在、かつての主郭跡が児童公園となっているが、その縄張りがほぼ原形に近い姿で残っている。また、堀切や土塁も残っている。なお、戦国期の上杉謙信の時代、その臣下にもう一つの安田城(阿賀野市)を拠点としていた揚北衆の安田氏がいたが、同姓とはいえ、この城を拠点とした安田氏とは血縁関係はなく、まったく別の一族である。JR信越本線安田駅から徒歩約10分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報