1920年代の中国の軍閥戦争。東三省(清(しん)から中華民国にかけて、山海関以東の、遼寧(りょうねい/リヤオニン)、吉林(きつりん/チーリン)、黒竜江の三省からなる、いわゆる「満州」の地)で日本に培養されつつ勢力を得た奉天軍閥張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)は、安直戦争(安徽(あんき)派と直隷(ちょくれい)派の戦争)のあと、直隷派を支持するとみせて山海関南部に進入、イギリス、アメリカ勢力を背後にもつ直隷派と対立した。22年4月京漢線沿線を中心に両派は戦ったが(第一次奉直戦争)、奉天派は一撃を受け東三省に退いた。しかし24年北京(ペキン)政権の座にある直隷派にふたたび大掛りな軍閥戦争を挑んだ(第二次奉直戦争)。こんどは直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう/フォンユイシヤン)の寝返りもあって、奉天派は北京進出に成功した。その後、複雑な離合集散を経て、張作霖は、日本の後押しもあって26年北京に入り、翌年北京で元帥府を組織したが、28年6月、北伐軍に駆逐され、張は汽車で東三省に逃げ帰る途中、日本軍の仕掛けた爆弾で爆死させられた。
[安藤彦太郎]
1922年と24年,中国の奉天派(張作霖(ちょうさくりん))と直隷派(呉佩孚(ごはいふ))との間で行われた軍閥戦争。
①〔第1次〕1920年の安直戦争以後,北京では奉直連合政権が成立するが,奉直の争いはしだいに激化し,22年4~5月両軍は馬廠(ばしょう),固安,長辛店(ちょうしんてん)で交戦,6日間の戦争で直隷派が勝った。敗走する奉天軍は日本軍事顧問の出動で立ち直ることができた。
②〔第2次〕1924年9月,奉天軍が熱河(ねっか)に進んだとき,直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内応があり,11月以後,呉佩孚は楊村で大敗し下野した。北京には段祺瑞(だんきずい)を執政とする安徽(あんき)・奉天・国民軍連合政権が成立する。
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…段祺瑞のひきいる安徽派は20年7月の安直戦争に敗れて政権を失い,直隷派とその同盟軍奉天派が政権の座についた。ついで22年4月,直・奉両派が争って直隷派が勝利したが(第1次奉直戦争),やがて24年9月,奉天派がふたたび戦争をしかけて直隷派の支配をくつがえした(第2次奉直戦争)。奉天派の勝利は日本の後援,安徽派および南方勢力との同盟あってのことであったが,とりわけ勝利の決定的要素となったのは直隷派の驍将(ぎようしよう)馮玉祥(ふうぎよくしよう)の寝返りであった。…
※「奉直戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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