宗忠神社(読み)むねただじんじや

日本歴史地名大系 「宗忠神社」の解説

宗忠神社
むねただじんじや

[現在地名]岡山市上中野一丁目

黒住教の開祖黒住宗忠を記念し、明治一八年(一八八五)宗忠生誕の地に建てられた神社。祭神は宗忠大明神。宗忠は安永九年(一七八〇)上中野かみなかの村に生れた。生家は代々隣村今村いまむら宮の禰宜職を勤め、幼少の頃から孝子として知られたという。二〇歳の頃、五ヵ条からなる「家内心得の事」を自らの規範としている。信心・謙虚・禁欲・勤勉・誠実を内容とするもので、のち黒住教の教則とされる「日々家内心得之事」(七ヵ条)の基礎をなすものである。文化九年(一八一二)痢疾の流行で両親を失ったのち、自らも病床に伏し、一時は死を覚悟したが、陽気暮しを心掛けて全快、同一一年の冬至の日(一一月一一日)日の出を拝した時、太陽との一体化を体験して神人合一の道を悟ったという。

宗忠神社
むねただじんじや

[現在地名]左京区吉田下大路町

神楽かぐら(吉田山)の南丘陵上、後一条天皇菩提樹院ぼだいじゆいん陵の西に位置する。主祭神は黒住教の教祖黒住宗忠。黒住教は幕末の新興民衆宗教の一つとして知られる。教祖黒住宗忠は備前国御野みの上中野かみなかの(現岡山市)で生れ、隣村にある今村いまむら宮の神官で、嘉永三年(一八五〇)二月二五日に没した。当社は翌四年に上洛した門人赤木忠春が、文久二年(一八六二)創建本殿南社に宗忠を祀り、北社には天照あまてらす大神を祀る(坊目誌)。黒住教の教義天命(太陽神・天照大神)を宇宙創造の中心とし、人心をその分霊とみて神人合一を説くもので、伝統的な神祇観に近いため神道界や尊王思想家に受入れられ、安政三年(一八五六)三月には黒住宗忠に宗忠大明神号が授けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宗忠神社の言及

【黒住教】より

…門人赤木忠春は京都で祈禱をつうじて日本の祖神たる天照大神の信仰を説いた。62年(文久2)に京都神楽岡に創建された宗忠神社は,66年(慶応2)に勅願所となり,幕末の尊王討幕運動の一拠点となった。武士,地主・有力町人層,公卿らを支持者とした黒住教は,皇室の祖神とされた天照大神を最高神にしていたため,明治政府の天皇崇拝を旨とする〈大教宣布〉運動のにない手として,教部省による皇道宣布の国民教化運動に積極的に参加し,全国各地に布教を展開した。…

【黒住宗忠】より

…その教えは,近隣地主層から岡山藩士へと広がり,弘化年間に教団組織が確立,1876年に神道事務局から別派独立として公認され,82年に神道黒住教となる。宗忠は56年(安政3)門人赤木忠春らの運動で大明神号をさずかり,62年(文久2)に京都神楽岡(現,京都市左京区),85年には岡山の大元(現,岡山市)に宗忠神社が建立された。教義に関する教祖の自筆文章は〈日々家内心得の事〉のみで,ほかに和歌と書信が残されている。…

※「宗忠神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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