(阪本是丸)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
黒住教の教祖。諱(いみな)が宗忠,幼名が権吉,左之吉,右源次,今村宮の禰宜(ねぎ)職のとき左京宗忠。備前国御野郡上中野村(現,岡山市北区上中野)に生まれる。父宗繁は今村宮禰宜で徒士格,母はつたで,その三男。1803年(享和3)に最初の伊勢参宮をしてより生涯に6回の参宮をし,天照大神への崇敬の念を深くした。12年(文化9)に両親をあいついで失い,みずからも労咳(肺結核)で病床にあること3年,14年冬至の日の出を拝んだときに自己の全生命と太陽たる天照大神が合一する神秘体験をし,神人不二(ふに)の妙理を悟った(天命直授(じきじゆ))。全快後の宗忠は,天命直授体験をもとに,天照大神への帰依による陽気な生活を理想と説き,祈禱禁厭で評判をとり,病人をなおした。その教えは,近隣地主層から岡山藩士へと広がり,弘化年間に教団組織が確立,1876年に神道事務局から別派独立として公認され,82年に神道黒住教となる。宗忠は56年(安政3)門人赤木忠春らの運動で大明神号をさずかり,62年(文久2)に京都神楽岡(現,京都市左京区),85年には岡山の大元(現,岡山市北区)に宗忠神社が建立された。教義に関する教祖の自筆文章は〈日々家内心得の事〉のみで,ほかに和歌と書信が残されている。
執筆者:大濱 徹也
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江戸末期の宗教家。黒住教の教祖。安永(あんえい)9年11月26日、備前(びぜん)国(岡山県)御野郡(みのごおり)上中野村の今村宮禰宜(ねぎ)の三男として生まれる。幼名権吉(ごんきち)、元服して左之吉、禰宜となって左京宗忠を名のる。1814年(文化11)、両親の死後患っていた胸の病が、心のもち方によって急激に回復するという体験をし、さらに冬至の日の朝、「天命直授(てんめいじきじゅ)」とよばれる神秘的境地に至る。翌1815年から講釈を中心とする布教活動を始め、武士などに門人が増加した。「日々家内心得の事」という7か条の簡単な文のほかにはまとまった教義を著すことはなかったが、和歌の形式でそのときどきの心境を詠んだものが、実質的な教えの内容となっている。
[井上順孝 2018年6月19日]
『原敬吾著『黒住宗忠』(1960/新装版・1987・吉川弘文館)』
1780.11.26~1850.2.25
江戸後期の神道家で黒住教の教祖。備前国御野(みの)郡上中野村今村宮の禰宜(ねぎ)黒住宗繁(むねしげ)の子。幼名は権吉,初名は左之吉,のちに右源治と改めた。1812年(文化9)両親をあいついで失い,みずからも病気になったが,心持ちをかえて回復。14年の冬至(11月11日)の朝に太陽を呑みこんで神と合一する「天命直授(じきじゅ)」後,教祖となって黒住教の布教を展開,信者集団を形成していった。彼の講釈は「浮かびのままの説教」といい,準備を行わず心に浮かんだことを話した。著作は残されていないが,「日々家内心得の事」が教典とされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…教派神道の一派。1814年(文化11)に黒住宗忠が開教したもので,76年に独立教派として政府から認可された。黒住教は,幕藩体制の解体期に成立した民衆宗教のなかで,天理教,金光(こんこう)教に先行して教義を確立し,江戸末期に教団を形成した。…
※「黒住宗忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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