デジタル大辞泉
「宗砌」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
そうぜい【宗砌】
- 室町中期の連歌師。連歌七賢の一人。山名宗全の家臣高山民部少輔時重。宗祇は門弟。和歌を正徹に、連歌を梵灯に学ぶ。永享年間(一四二九‐四一)から連歌界に活躍。文安五年(一四四八)には北野連歌会所奉行、宗匠となる。著「古今連談集」「砌塵抄」「初心求詠集」「花能万賀喜」「宗砌同集」など。享徳四年(一四五五)没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
宗砌【そうぜい】
室町中期の連歌師。俗名高山民部少輔時重。但馬(たじま)の人。山名氏に仕えた武士の出。和歌を正徹に,連歌を梵灯に学ぶ。1448年北野連歌会所奉行・宗匠となり当時随一の指導者となった。宗祇の師であり,連歌黄金時代を準備した。心敬らとともに連歌七賢の一人。《新撰菟玖波(つくば)集》に多く入集。連歌論に《花能万賀喜(はなのまかき)》《初心求詠集》がある。
→関連項目新撰菟玖波集|竹林抄|連歌
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
宗砌 (そうぜい)
生没年:?-1455(康正1)
室町中期の連歌師。山名時煕(ときひろ)・持豊(宗全)の家臣。俗名は高山民部少輔時重。連歌を梵灯庵主に学ぶ。1433年(永享5)《北野社万句》に参加,48年(文安5)北野連歌会所宗匠となり,連歌界を指導。山名持豊に従い但馬に下向し,翌年同国で没した。享年70歳前後。《新撰菟玖波集(つくばしゆう)》中,心敬についで第2位の入集句数をもつ。宗祇(そうぎ)を教え,後年の連歌黄金時代に影響を与えた。連歌論書に《密伝抄》(1455)などがある。
執筆者:鶴崎 裕雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
宗砌
そうぜい
[生]?
[没]康正1(1455).1.16. 但馬
室町時代の連歌作者。俗名,高山民部少輔源時重。山名宗全の家臣。連歌は梵灯庵主に,和歌は正徹 (しょうてつ) に学び,永享 (1429~41) 以後の連歌復興に指導的役割を果した。文安5 (48) 年北野連歌会所奉行。宗祇の『竹林抄』にいう七賢の一人で,『新撰菟玖波 (つくば) 集』には最も句数の多い心敬に次いで多数入集。句風は力強く,技巧に富む。発句よりも付句に長じていた。連歌論書に『初心求詠集』 (33以前) ,『古今連談集』 (44~48?) ,『花能万賀喜 (はなのまがき) 』 (52) ,『密伝抄』,句集に『宗砌句集』 (54) ,『宗砌句』『宗砌発句並付句』などがある。享徳1 (52) 年,一条兼良 (かねら) に協力して,「新式今案」を制定。同3年,山名宗全の失脚に際し,ともに但馬に下り,翌年没した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
宗砌
そうぜい
(?―1455)
室町中期の連歌師。山名家の家臣で、俗名高山民部少輔(みんぶしょうゆう)時重。連歌を梵灯(ぼんとう)に学び、和歌は正徹(しょうてつ)の門に入る。出家遁世(とんせい)して高野山居の身となり、梵灯死去の翌年、師説をもとに『初心求詠集』を著す。1433年(永享5)北野社万句に出座、以後しだいに京都の連歌界の第一人者となり、48年(文安5)北野会所奉行(ぶぎょう)となる。54年(享徳3)山名宗全の退居に伴い但馬(たじま)に下り、翌年1月16日没。70余歳か。『古今連談集』『花能万賀喜(はなのまがき)』などの連歌論書、『宗砌句』などの句集、多くの一座連歌作品があり、一条兼良(かねら)の『新式今案(しんしきこんあん)』に協力しての式目改定の功も大きい。
[島津忠夫]
『金子金治郎著『新撰菟玖波集の研究』(1969・風間書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の宗砌の言及
【宗匠】より
…連歌では,二条良基が善阿を称して〈近代地下(じげ)の宗匠〉といっているのは,第一人者の意と思われる。1448年(文安5)幕府の命により京都北野社の連歌会所の奉行職に高山宗砌(そうぜい)がつき,そのあと,能阿,宗伊,宗祇(そうぎ),兼載らが任ぜられたが,この人々は宗匠と称された。里村昌叱(しようしつ)は豊臣秀吉から,昌琢(しようたく)は徳川秀忠から朱印状を下付され,花の本(はなのもと)宗匠家として認められて,以後,里村家は幕府の連歌師を勤めた。…
※「宗砌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」