宝光院(読み)ほうこういん

日本歴史地名大系 「宝光院」の解説

宝光院
ほうこういん

[現在地名]山形市八日町二丁目

江戸時代城下町であった鉄砲てつぽう町にある。妙円山と号し、天台宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、天長七年(八三〇)台座主円仁が出羽国の大地震に際し難民救済のため関東より巡錫した時、近江国から山王権現中野なかのに勧請し、一宇を建立して別当としたのが始まりと伝える。その後、中野城鎮護の寺院として栄えてきたが、慶長六年(一六〇一)最上義光が帰依し、現在地に堂宇を建立、寺領二七八石を寄進したという。最上義光分限帳(色川文書)によると寺領は二四〇石。


宝光院
ほうこういん

[現在地名]大垣市野口

野口のぐち集落の南東にある。天台宗に属し、仏道山宝光院成願寺と号する。本尊は左目不動明王。寺伝によれば、最澄の創建、昔は七堂伽藍を有し、末寺も多く、その規模は広大であったという。戦国時代に兵火にあったが、天正一七年(一五八九)豊臣秀吉から一〇石拝領の朱印を与えられて祈願所となり、江戸時代も将軍から朱印を下付され、隆盛を極めたという。天正年間頃のものとされる九月二日の稲葉一鉄禁制判物(宝光院文書)に「野口談儀所 宝光院」とみえ、寺中に宿を借りた者の狼藉などが禁じられている。


宝光院
ほうこういん

[現在地名]栃尾市大町

おお町の町並の西にある。真言宗豊山派、五智山密厳寺宝光院と称し、本尊は金剛界大日如来。貞観年中(八五九―八七七)の創建といわれ、市内では最も古い創建伝承をもつ寺の一つ。開基は弘法大師の弟子真雅の高弟道雅という。道雅は弘法大師から命名された波立不動尊の一軸を真雅より譲られ、その軸を本尊として来越、楡原にればら村に宝光院を創設。元和年間(一六一五―二四)鳥越とりごえ(現在の新町)に移転再建。


宝光院
ほうこういん

智照院とほぼ同じ位置にあった塔頭で、現在その痕跡として元禄一四年(一七〇一)院主の墓一基が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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