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宮柊二 みや しゅうじ

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美術人名辞典の解説

宮柊二

歌人、北原白秋門。第二歌集『小紺珠』で戦後派を代表する歌人としての地位を確立し、後『コスモス』を創刊し、新人の育成に努め『朝日新聞』歌壇の選者となる。読売文学賞迢空賞芸術院賞等を受賞し、芸術院会員も務めた。著書に、歌集『多く夜の歌』『独石馬』等がある。昭和61年(1986)歿、74才。

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デジタル大辞泉の解説

みや‐しゅうじ【宮柊二】

[1912~1986]歌人。新潟の生まれ。本名、肇。北原白秋に師事。清新な叙情を示す。歌誌「コスモス」を主宰。歌集「多く夜の歌」など。

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百科事典マイペディアの解説

宮柊二【みやしゅうじ】

歌人。本名肇。新潟県生れ。長岡中卒。北原白秋の門人となり,《多麿》創刊に加わる。白秋失明後,その秘書となる。戦後は釈迢空に私淑。歌集に《群鶏》《小紺珠》《山西省》《晩夏》《日本挽歌》などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宮柊二 みや-しゅうじ

1912-1986 昭和時代の歌人。
大正元年8月23日生まれ。北原白秋の門下。昭和14年日本製鉄(のち富士製鉄)にはいり,同年応召で中国各地を転戦。21年第1歌集「群鶏」を刊行。28年より「コスモス」を主宰した。代表歌集に「山西省」「小紺珠(しょうこんしゅ)」。52年芸術院賞,58年芸術院会員。妻・宮英子も歌人。昭和61年12月11日死去。74歳。新潟県出身。長岡中学卒。本名は肇。
【格言など】わが裡(うち)に過ぎし日本のなつかしと赤き燠(おき)見てしばし遊びつ(「日本挽歌」)

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世界大百科事典 第2版の解説

みやしゅうじ【宮柊二】

1912‐86(大正1‐昭和61)
歌人。新潟県堀之内町生れ。本名肇(はじめ)。長岡中学在学中から作歌,相馬御風の《木蔭歌集》に投稿。中学卒業後,家業の書店を手伝ったが,1932年上京,翌年北原白秋に師事,白秋主宰の《多磨》が創刊されて俊英として注目される。39年応召されて中国大陸へ転戦,白秋の死を戦地で知る。戦後第1歌集《群鶏》(1946)の清新な抒情で注目され,戦後の現実と直面した《小紺珠》(1948),従軍体験を結晶化した《山西省》(1949)で戦後短歌の代表歌人となった。

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大辞林 第三版の解説

みやしゅうじ【宮柊二】

1912~1986) 歌人。本名、肇。新潟県生まれ。長岡中学卒。戦後の荒廃した現実を凝視しながら孤独な魂に迫る。戦争体験を歌う「山西省」ほか、歌集「小紺珠」「日本挽歌」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宮柊二
みやしゅうじ

[生]1912.8.23. 新潟,北魚沼
[没]1986.12.11. 東京
歌人。本名,肇。長岡中学校卒業。 1932年上京,種々の職業を転々としながら,北原白秋に師事して歌作を始めた。第2次世界大戦後,処女歌集『群鶏』 (1946) を上梓,人間性の根源を彷彿する清新な抒情で歌壇の注目を集めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宮柊二
みやしゅうじ
(1912―1986)

歌人。新潟県生まれ。本名肇(はじめ)。長岡中学校(現、長岡高校)卒業。のち上京し、1933年(昭和8)北原白秋(はくしゅう)の門下となる。1935年『多磨(たま)』創刊に加わり、白秋の秘書となる。1939年に召集され、大陸に出征、以後1943年に解除になるまで山西省を中心に転戦する。1942年に白秋の死を戦地で知る。これらの経緯は歌集『山西省』に鮮烈に歌われた。1944年に滝口英子と結婚、再召集。終戦後の1946年、第一歌集『群鶏』刊行。新歌人集団に加わり、1948年に『小紺珠(しょうこんしゅ)』、1949年に『山西省』を刊行するなど、戦後歌壇の旗手として活躍。1949年発表の『孤独派宣言』はその決意を示すものとして注目された。1952年に『多磨』解散、翌年『コスモス』創刊、ここから多くの歌人が輩出した。つねに庶民派を貫き、一人の人間の孤独、怒り、喜び、愛といった「生の証明」を歌い続け、戦場詠、職場詠、家族詠、老いの歌など、現在につながるさまざまの領域を開いた歌人である。1955年「朝日歌壇」選者となる。毎日出版文化賞、読売文学賞、迢空(ちょうくう)賞、日本芸術院賞など、多くの賞を受賞。[日高堯子]
 一本の蝋(ろう)(もや)しつつ妻も吾(あ)も暗き泉を聴くごとくゐる
『『宮柊二集』全11巻(1980~91・岩波書店) ▽島田修二著『宮柊二の歌』(1987・花神社) ▽小高賢著『宮柊二とその時代』(1998・五柳書院)』

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世界大百科事典内の宮柊二の言及

【コスモス】より

…1953年3月創刊。宮柊二(みやしゆうじ)編集。北原白秋創刊の《多磨》解散後,この系列の歌誌として登場。…

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