大慈寺(読み)だいじじ

精選版 日本国語大辞典 「大慈寺」の意味・読み・例文・類語

だいじ‐じ【大慈寺】

[一] 熊本市野田町にある曹洞宗の寺。山号は大梁山。弘安五年(一二八二)寒厳義尹(後鳥羽天皇皇子)が開山。たびたびの火災のためにおとろえたが、天文一五年(一五四六)洞春寿宗が中興。現在の建物は安永八年(一七七九)建立のもの。大禅寺。
[二] 鹿児島県曾於郡志布志町にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は龍興山。興国年間(一三四〇‐四六)玉山玄堤が開山。はじめ帝釈寺と称した。明治一二年(一八七九)相州が再興。

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デジタル大辞泉 「大慈寺」の意味・読み・例文・類語

だいじ‐じ【大慈寺】

熊本市にある曹洞宗の寺。山号は大梁山。弘安元年(1278)寒巌義尹かんがんぎいんの開山。戦国時代、一時衰退したが、加藤清正による寺領寄進を機に復興。江戸時代は、九州地方の曹洞宗僧録所。大慈寺文書を所蔵。

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日本歴史地名大系 「大慈寺」の解説

大慈寺
だいじじ

[現在地名]志布志町志布志

志布志の市街地北方小西こにしにある。龍興山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は観音菩薩。創建は暦応三年(一三四〇)で、楡井頼仲により肝付きもつきの帝釈寺(現高山町)が移されたものという。その後大慈広慧禅寺と称した。開山は仏智大通禅師玉山玄提(志布志旧記)。延文四年(一三五九)一二月一五日に諸山となり(「足利義詮御判御教書写」大慈寺文書)、文安元年(一四四四)八月六日には十刹に列せられた(「沙弥某奉書写」同文書)。初め京都東福寺の末であったらしく(天正八年と推定される三月二八日「島津義久書状」旧記雑録)、戦国時代に妙心寺派に転じた。本尊は運慶作の千手観音であったと伝えられる(志布志旧記)

志布志とその周辺を支配するにあたって当寺は重要な意味をもっており、楡井頼仲以降の支配者から大隅・日向各所の所領が寄進され、保護を加えられた。おもな寺領をあげると、頼仲からは正平三年(一三四八)八月二八日に大隅国西俣にしまた(現鹿屋市)が再寄進され(楡井頼仲寄進状写、以下とくに断らない限りは大慈寺文書)、翌四年三月一〇日には造営料所として小原おばる別符(現串良町)半分地頭職(楡井頼仲寄進状写)、翌五年一二月九日には仏供灯油田として救仁くに院内伊崎田いさきだ(現有明町)が寄進された(楡井頼仲寄進状写)。なお観応二年(一三五一)八月一三日頼仲の籠る志布志城は畠山直顕の軍勢に攻略され(同年八月日「禰寝清成軍忠状」禰寝文書など)、延文二年一月晦日の胡麻崎ごまがさき(現大崎町)落城後の二月五日、頼仲が当寺宝池ほうち庵で自刃したとする史料もある(「肝付兼氏譜」旧記雑録など)。頼仲の墓は同庵跡にある。

志布志城攻略後の観応二年八月一九日には畠山直顕から救仁院内田浦たのうら条と島津庄大隅方串良くしら院内岩弘いわひろ(現東串良町)(畠山直顕寄進状写)、同年一一月一九日には足利恵源(直義)から西俣庄・小原別符(足利恵源寄進状写)、文和元年(一三五二)一一月二八日には日向国臼杵うすき(現宮崎県東臼杵郡)南方半分が直顕から寄進された(畠山直顕寄進状写)

大慈寺
だいじじ

[現在地名]熊本市野田町

緑川と加勢かせ川に挟まれた野田のだ町の東部にある。大梁山と号し曹洞宗、本尊釈迦牟尼仏。開山は道元の弟子寒巌義尹で、後鳥羽天皇または順徳天皇の子と伝えられる。義尹は寛元元年(一二四三)入宋し建長五年(一二五三)帰国、文永元年(一二六四)再び入宋し同四年帰国した。帰国後筑前国博多聖福はかたしようふく寺に在留三年、同六年肥後に来て宇土うと古保里こおざと(現宇土市)に住居し、同年河尻泰明の娘素明尼の請によって三日山如来によらい寺を建立、建治二年(一二七六)河尻大渡かわしりおおわたしに長橋を架けることを発意した。弘安元年(一二七八)橋を架けた義尹は今後の布教のため一伽藍を建立することを発願し、地頭河尻泰明に大渡橋の北の地をその敷地にと所望した。同五年一〇月八日、泰明は地頭の支配下にあった地利物および検断得分を寺の支配とすることとし、「東限白河 西限満善寺西堀通至于大河 南限大河 北限満善寺南堀通于白河」の四町四方の地を寄進した(「源泰明寄進状案」大慈寺文書)

さらに弘安七年一〇月一三日泰明は仏性灯油料・修理用として、河尻郷内にある海辺の牟田(湿地)を寄進した。この地は緑川河口の沖積地で、東境が「西新開竪堤」、南の境が「同横堤」とあることから、河尻氏が堤防を築き干拓を進めている地で、西の境が「今堤定并可極海辺有開発也」とあるので、近年河尻氏によって新たに堤防が築かれた干拓予定地で、それより西は島原湾の海辺までの開発権が寺に与えられた(「源泰明寄進状案」大慈寺文書)

大慈寺
だいじじ

[現在地名]八戸市松館 古里

松館まつだての北の山稜に位置する。福聚山と号し、曹洞宗。本尊は観世音菩薩。応永一九年(一四一二)の大慈寺梵鐘勧進奉賀帳(遠野南部文書)

<資料は省略されています>

とあり、寄進者の名から根城南部氏一族との密接な関係が知られる。この前年一〇代光経が秋田出陣の際、一老僧の助言により戦勝したことを謝して、次代の長経が松月庵の旧跡を復興して一寺を建立し、田料一〇〇石を寄付して根城南部氏の菩提寺としたと伝える(「八戸家伝記」南部家文書)

寛永四年(一六二七)根城南部氏の遠野とおの(現岩手県遠野市)転封とともに同地へ移転したが、盛岡藩二代藩主南部利直が寺領五〇石を付して中興し、当寺三世虎山が中興開山となった(「御領内寺院来由全」八戸市立図書館蔵)

大慈寺
だいじじ

[現在地名]盛岡市大慈寺町

祇陀ぎだ寺の東に隣接する。福聚山と号し、黄檗宗。本尊は如意輪観音。創建は寛文一三年(一六七三)、開基は徳真道空という。内史略本「盛岡砂子」によると、初め徳真は鷹匠たかしよう小路・呉服ごふく町への抜口の酒屋付近に庵を結び、現在の境内地はかつて久慈弥次右衛門の屋敷であったという。寺社修験本末支配之記(内史略)には萬福まんぷく(現京都府宇治市)末で寺領六三石余(うち三〇石現米)、塔頭は寿泉じゆせん院・松月しようげつ庵とあり、盛岡藩領内に末寺一〇・支配寺二を有する。

大慈寺
だいじじ

[現在地名]岩舟町小野寺

諏訪すわヶ岳の南東麓、村檜むらひ神社の西に隣接する。小野寺山転法輪院と号し、天台宗。本尊薬師如来で、法人名は大慈院。寺伝によれば、天平九年(七三七)行基の開山、第二世の住職は鑑真の門弟道忠、第三世は広智という。「叡山大師伝」によると、弘仁六年(八一五)最澄は東国に下向し法華大乗経を二千部書写し、上野・下野両国に宝塔を建立してそれぞれ一千部を安置したが、下野国では大慈院が選ばれ、当寺の広智・其徳・鸞鏡・徳念らが協力している。

大慈寺
だいじじ

[現在地名]八戸市糠塚 北糠塚

長者ちようじや山の南麓に位置する。福聚山と号し、曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。延宝年中(一六七三―八一)松館まつだて村の大慈寺の宿寺として同寺四世明鑑が建立した(「御領内寺院来由全」八戸市立図書館蔵)。のち整備が進むにつれ、住職も当寺に住むことが多くなり、本寺のような形となった。寛保三年(一七四三)の「奥州南部糠部順礼次第全」に「九番札処 長者山大慈寺三十三観音」とあり、糠部ぬかのぶ三十三観音の第九番札所とされる。

大慈寺
だいじじ

[現在地名]吉舎町吉舎 白根

小字白根しらねの山中にあり、山号は広沢山、臨済宗仏通寺派、本尊釈迦如来。応永二八年(一四二一)南天山なんてんざん城第四代城主和智氏実の創建で、開山は仏通ぶつつう(現三原市)の愚中の高弟宗綱。仏殿は永享一一年(一四三九)氏実の弟第五代時実が建立したが、尼子氏の兵火にかかり、永禄一二年(一五六九)に和智元郷が再建した(芸藩通志)といい、その棟札が残る。近世に入り衰微したが、宝永三年(一七〇六)甲奴こうぬ・世羅・三谿みたにの三郡を勧化してわずかに修理し、文化―文政(一八〇四―三〇)の頃霊岳が本堂・庫裏を再造した(双三郡誌)

大慈寺
だいじじ

[現在地名]網野町字生野内

生野内いくのうち集落の谷の南奥、西側の山麓にある。生野山と号し高野山真言宗。かつては鷲峰山大悲だいひ寺と号した。本尊聖観音

当寺調文書(「竹野郡誌」所引)によれば、神亀二年(七二五)聖武天皇の夢告により行基が開創、自刻の聖観世音像を安置し大悲寺の号を下した。その後堂塔伽藍を整え僧三〇〇人を止宿せしめたという。その後戦乱のために本堂のほかに一、二宇残るのみとなったという。大永二年(一五二二)金堂を焼失したが、その後再建したとみえ、天文七年(一五三八)には千部経会を勤修したが、同九年炎上、同二四年に再建したと伝える(竹野郡誌)

大慈寺
だいじじ

[現在地名]東和町米川 町裏

国道三四六号に沿う米川よねかわ集落の西南にある。曹洞宗、法輪山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。もと天台宗で諏訪森大慈寺といい、今のお諏訪山すわさんにあったが衰微したものを、藤原秀衡が奥州三十三観音の第一四番札所として再興したという。永享元年(一四二九)黒石くろいし(現岩手県水沢市)正法しようぼう寺の四世中山良用が曹洞宗とし、山号も法輪山と改め、当寺に隠居した。

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改訂新版 世界大百科事典 「大慈寺」の意味・わかりやすい解説

大慈寺 (だいじじ)

熊本市南区にある曹洞宗永平寺派の寺。山号は大梁山。1283年(弘安6)後鳥羽天皇(一説に順徳天皇)皇子と伝えられる寒巌義尹(かんがんぎいん)が河尻の地頭河尻泰明の援助を受け創建。同寺派を法王派と別称するのは義尹のこの出自にちなんでいる。88年(正応1)後宇多上皇により御祈願寺とされ,さらに,94年(永仁2)には紫衣勅許もなされた。また同じころ,鎌倉幕府も当寺を祈禱寺としており公家武家双方の祈禱寺として繁栄を示し,その一派は東海地方へも教線を拡大したが,1520年(永正17)兵火にかかり諸堂がことごとく焼失した。29年(享禄2)住持洞春寿宗は後奈良天皇の綸旨ならびに宸筆の勅額を得て当寺の再興に尽力した。近世に入ると往古の格式を失い,76世白堂紹珪の尽力にもかかわらず,永平寺末となるなどその回復は果たせなかった。什宝には弘安10年(1287)の銘をもつ梵鐘,寒巌禅師自画像等があり,義尹関係の文書も多い。
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百科事典マイペディア 「大慈寺」の意味・わかりやすい解説

大慈寺【だいじじ】

熊本市にある曹洞宗の寺。本尊釈迦牟尼仏。1282年道元(どうげん)の弟子寒厳義尹(かんがんぎいん)が地頭河尻泰明(かわじりやすあき)より寺地を得て開創。1288年後宇多(ごうだ)上皇の祈願寺となり,1294年伏見(ふしみ)天皇より紫衣(しえ)を許されている。1702年熊本藩領内の曹洞宗僧禄(そうろく)所となった。1287年鋳造の梵鐘・寒厳義尹自賛像などは重要文化財

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大慈寺」の意味・わかりやすい解説

大慈寺
だいじじ

岩手県盛岡市大慈寺町にある寺。黄檗(おうばく)宗に属する。山号は福聚山。本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)。1673年(延宝1)徳真(とくしん)禅師の開山。1884年(明治17)の大火で諸堂宇を焼失したが、時の宰相原敬(はらたかし)の援助により諸堂が再建された。腰越(こしごえ)堂は鎌倉腰越にあった原敬の書斎を移築したもの。寺宝に隠元画像、徳真禅師画像、原敬画像(上野広一筆)、原敬の書などがある。また南部家30代行信の息女の墓、原敬の墓がある。

[大鹿実秋]

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事典・日本の観光資源 「大慈寺」の解説

大慈寺

(鹿児島県志布志市)
かごしま よかとこ100選 浪漫の旅」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「大慈寺」の解説

大慈寺

鹿児島県志布志市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は龍興山、本尊は観音菩薩。1340年創建。

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