寺崎村(読み)てらさきむら

日本歴史地名大系 「寺崎村」の解説

寺崎村
てらさきむら

[現在地名]佐倉市寺崎てらざき大崎台おおさきだい四―五丁目

羽鳥はどり村の東、鹿島かしま(旧物井川)右岸に位置し、鹿島川と高崎たかさき川の合流点南側を村域とする。村内台地中央を鏑木かぶらき村から高崎川の寺崎橋を渡る通称寺崎道が通り、台地裾部には鹿島川の架橋羽鳥橋を渡る佐倉道(通称寒川道)もある。寺崎橋・羽鳥橋は長さ一二間・幅二間であった(井原家文書)。建長二年(一二五〇)以降と推定される九月一五日の平頼胤請文(中山法華経寺蔵「双紙要文」紙背文書)に「下総国寺崎郷」とみえ、同郷の住人末弘が六郎太郎および稲の返還を訴え、千葉頼胤は一族の国分季行に糾明を命じている。


寺崎村
てらさきむら

[現在地名]睦沢町寺崎

上市場かみいちば村の北に位置し、埴生はぶ川が流れる。古くは勝見かつみ村と称し、菅見郷の転訛ともいう。寿永二年(一一八三)上総権介広常の謀殺に伴い弟頼次(金田小太夫)が蟄居を命じられ病死するが、広常の無実が認められて頼次の旧領が嫡子康常に与えられ、康常は寺崎の勝見城に移ったという。千葉大系図にも一二世紀末より金田氏が在城したとあるが、文明―大永期(一四六九―一五二八)の時代の居城とみる説がある。のち武田氏の支配下になり、関東八州諸城覚書(毛利家文書)などでは武田豊信の属城となっている。


寺崎村
てらさきむら

[現在地名]桃生町寺崎

南流する北上川左岸、牛田うした村の南に位置し、気仙けせん道に沿う宿場町登米とめ寺池てらいけ(現登米町)佐沼さぬま(現迫町)方面への道もあり、北上川には渡しが置かれた。北方に舟場ふなばの地名が残る。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の葛西中に「てらさきの内 舟五そう」とある。また寛永六年(一六二九)の登米伊達家二代白石刑部太輔(宗貞)宛の伊達政宗領知黒印状(同文書)に登米として「寺崎村」とあり、二〇貫一九一文が記される。正保二年(一六四五)まで白石氏の所領であった(登米藩史稿)


寺崎村
てらさきむら

[現在地名]会津高田町寺崎

高田村の北西一五町余にあり、四周は田圃で、西に赤沢あかさわ川、東の段丘下に古宮ふるみや川が流れた。かつては現在地より六町ほど北にあり、そこに大きな寺があったための村名という。そこは宮川扇状地の末端で寺崎と称した。寛文四年(一六六四)いくつかの小集落が集まって現在地に移り、上寺崎と称するようになり、端村はもと上村といったが、この時より下村(下寺崎)と称したという(新編会津風土記)


寺崎村
てらざきむら

[現在地名]成東町寺崎

富田とみだ村の東に位置し、銚子に至る道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三五七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では早舟組に属し、旗本長谷川領二〇〇石余・同宮城領一五〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本酒井・長谷川領と幕府領(一斗)、家数四〇。


寺崎村
ざきてらざきむら

[現在地名]笠間市寺崎

金井かない村の南に位置し、笠間城下の北に続く。中世は笠間氏の支配下にあり、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高三八四・〇八六石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)・元禄三年(一六九〇)の新開検地で合せて二一石余を打出す。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池一、四壁山五、入会山一、野山秣場五などがあり、文化年間(一八〇四―一八)の戸数三三・人数一二五、馬九。


寺崎村
てらさきむら

[現在地名]高取町大字寺崎

貝吹かいぶき山西南麓に位置。西は越智おち村。文禄四年(一五九五)の検地の村高三三八・六一石、検地奉行は御牧景則。二五二・六一石は廃藩置県まで高取藩領。八六石は旗本桑山貞晴領。貞晴死後は幕府領、寛永一六年(一六三九)郡山藩(郭住、本多勝行)領、延宝七年(一六七九)再び幕府領、文政六年(一八二三)高取藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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