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寺門静軒 てらかどせいけん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寺門静軒
てらかどせいけん

[生]寛政8(1796).江戸
[没]慶応4(1868).2.24. 武蔵
江戸時代後期の文人。名,良。字,子温。通称,弥五左衛門。別号,克己,蓮湖。父は水戸藩士。母方の祖父母に育てられ,江戸両国で過した。のち山本緑陰から漢学を学び,文政9 (1826) 年谷中に克己塾を開いた。

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デジタル大辞泉の解説

てらかど‐せいけん【寺門静軒】

[1796~1868]江戸後期の儒学者・文人。江戸の人。名は良。通称、弥五左衛門。「江戸繁昌記」を著し、江戸を追放される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

寺門静軒 てらかど-せいけん

1796-1868 江戸時代後期の儒者。
寛政8年生まれ。山本緑陰(りょくいん)に師事。天保(てんぽう)2年から執筆した「江戸繁昌(はんじょう)記」が「敗俗之書」とされ,武家奉公御構(おかまい)(禁止)の処分をうけた。のち各地を旅し,万延元年武蔵(むさし)妻沼(めぬま)(埼玉県)に郷学両宜塾をひらいた。慶応4年3月24日死去。73歳。江戸出身。名は良。字(あざな)は子温。通称は弥五左衛門。

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朝日日本歴史人物事典の解説

寺門静軒

没年:明治1.3.24(1868.4.16)
生年:寛政8(1796)
江戸後期の儒者,詩人。名は良,字子温,弥五左衛門と称した。水戸藩大吟味方勤寺門弥八郎勝春の次男。母は江戸における勝春の妾。文化4(1807)年,12歳で同居の母を失い,翌年水戸の実父に死なれ,母方の祖父母に育てられた。山本北山の子緑陰に儒学を学び,上野寛永寺の勧学寮に入って,学頭霊如仏隴について仏典と性霊派風の漢詩に接した。その後,駒込吉祥寺門前町で私塾を開き口を糊したのは,大田錦城の青年期にも似て,江戸浪人儒者の定跡といえよう。天保1(1830)年,徳川斉昭が水戸藩主になるや仕官活動を始めるが成功せず,以後,官途を断念し,詩文においては「無用之人」を標榜するようになった。経世の学について独自の説を確立しえたとはいいがたいが,江戸市中では文人として名声を獲得した。孤高を装ったが,江戸の文壇と多くの接点を持ち,代表作『江戸繁昌記』(1832~36)で揶揄している俗儒たちとは昼夜相交わる時期もあった。同書は繰り返し刷られ,明治まで続く漢文体「繁昌記」ものの大流行を生み出したが,天保改革の際筆禍を起こし,武家奉公御構の処分となった。以後,関東・越後地方を転々とし,胄山の門人根岸友山の邸宅で死去。著作はほかに『太平志』(1834),『静軒詩鈔』(1838),『江頭百詠』(1850)など多種。<著作>『江戸繁昌記』(日野竜夫校注,新日本古典文学大系100巻)<参考文献>永井啓夫『寺門静軒』,前田愛『幕末・維新期の文学』

(ロバート・キャンベル)

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世界大百科事典 第2版の解説

てらかどせいけん【寺門静軒】

1796‐1868(寛政8‐明治1)
幕末期の儒者。名は良,字は子温,通称弥五左衛門。号は静軒のほか,克己,蓮湖など。水戸藩士の子として江戸に生まれ,山本緑陰に入門し,駒込,谷中,浅草新堀端などに開塾して,水戸藩仕官をはかったが成功せず,以後上州,野州,越後などに旅行,講義をして生活し,みずから〈無用之人〉と称し世間を皮肉の目で観じ,戯著《江戸繁昌記》などを板行して筆禍をこうむったが,後世に与えた文学上の影響は少なくない。【朝倉 治彦】

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大辞林 第三版の解説

てらかどせいけん【寺門静軒】

1796~1868) 江戸後期の漢詩人。名は良、字あざなは子温、通称、弥五左衛門。江戸で私塾を開く。「無用之人」の自覚のもとに著した、漢文の戯書、「江戸繁昌記」が幕府の出版取り締まりに触れ、のち諸国を放浪。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寺門静軒
てらかどせいけん
(1796―1868)

江戸末期の漢学者。名は良。字(あざな)は士温。通称弥五左衛門。江戸の人。山本緑陰に師事。天保(てんぽう)年間(1830~44)に著した『江戸繁昌記(はんじょうき)』(正編五冊、後編三冊)では、「無用之人」と自称し、その目を通して幕末江戸の世相を戯体の漢文で活写した。この作は大いに評判となったが、そこに込められた風刺の鋭さゆえに天保の改革の当事者の忌諱(きい)に触れ筆禍を招いた。結果は武家奉公御構(おかまい)(禁止)となり、以後諸国を流浪。1859年(安政6)には『新潟繁昌記』を書き下した。幕末・明治の文壇に現れた一群の繁昌記ものは彼を祖とする。ほかに『静軒一家言』『静軒詩鈔(しょう)』『静軒文鈔』などの著作がある。慶応(けいおう)4年2月24日没。[中野三敏]
『永井啓夫著『寺門静軒』(1966・青蛙房)』

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世界大百科事典内の寺門静軒の言及

【江戸繁昌記】より

…江戸末期の江戸市中の繁栄ぶりを狂体漢文で叙した風俗書。著者は寺門(てらかど)静軒(良)。1832‐36年(天保3‐7)刊。…

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