小原雲心(読み)おはらうんしん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小原雲心」の意味・わかりやすい解説

小原雲心
おはらうんしん
(1861―1916)

いけ花流派小原流創始者。名は房五郎、六合軒と号す。松江(島根県)に生まれ、彫刻家を志したが、病弱から余技のいけ花に進んだ。池坊(いけのぼう)を学んだが、その旧態に満足せず、日露戦争後の洋花の移入生活様式の変化に着目、水盤による盛り花考案し、1912年(明治45)、国風式(こくふうしき)盛り花の名称をもって独立し、近代いけ花への道を開いた。これは、大正初期のいけ花界に新風を吹き込むものであったと同時に、自由花を生む方向づけに、大きな役割を果たしている。

[北條明直]

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20世紀日本人名事典 「小原雲心」の解説

小原 雲心
オハラ ウンシン

明治・大正期の華道家 小原流創始者。



生年
文久1年(1861年)

没年
大正5(1916)年

出生地
出雲国松江(島根県)

経歴
いけ花流派小原流の創始者。はじめ彫刻家を志すが、病弱のためいけ花の道に進む。池坊を学んだが、日露戦争後の洋花の移入と生活様式の変化に着目して、水盤による盛り花を考案。明治45年「国風式盛り花」の名称で独立、大正初期のいけ花界に新風を吹きこみ、近代いけ花への道を開いた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小原雲心」の意味・わかりやすい解説

小原雲心
おはらうんしん

[生]文久1(1861).5.19. 松江
[没]1914.1.1. 大阪
生け花作家。盛花瓶華の創案者。小原流初世。本姓高田氏 (小原家の養子) ,名は房五郎,号は六合軒雲心。 1889年大阪に出て彫刻 (大賀可楽門) と生け花 (池坊専正,専啓門) の研究を続けた。自然主義文化の一翼として「国風盛花」を 1900年に創案したといわれ,近代生け花の発展に尽した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小原雲心」の解説

小原雲心 おはら-うんしん

1861-1916 明治-大正時代の華道家。
文久元年5月19日生まれ。小原流の創始者。はじめ池坊をまなぶ。水盤による盛り花を考案し,明治45年小原式国風盛花(もりばな)の名称で独立。生け花の近代化に影響をあたえた。大正5年1月1日死去。56歳。出雲(いずも)(島根県)出身。旧姓は高田。本名は房五郎。別号に六合軒。

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世界大百科事典(旧版)内の小原雲心の言及

【池坊】より

…池坊もしばらく沈滞していたが,古い伝統をもつため他流より早く復活し,明治のいけばな界に再び支配的地位を保つようになった。しかし池坊から離れて自由な創造をめざすものも多くなり,吉村華芸(かうん)の池坊竜生派,小原雲心の小原流などが成立,大正期にはいると安達潮花の安達式など斬新な作風の作家たちが独立し,創流をするようになった。第2次大戦後の池坊は近代の盛花や投入だけでなく,現代いけばなの研究にも力をそそぎ海外への進出もはかるようになった。…

【小原流】より

…いけばなの一流派。明治中期,小原雲心によって盛花を中心としたいけばなの新しい形式として創始された。明治年間は池坊の門弟として生花技術に優れていた雲心は,池坊花技を教えるかたわら盛花の発表を行っていた。…

※「小原雲心」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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