いけ花界最古の流派。いけ花史とともにある流派といっても過言ではない。池坊はもともと頂法寺(ちょうほうじ)の一僧房の名。頂法寺は京都市中京(なかぎょう)区にあり、聖徳太子創建寺院の一つとされ、宗旨は天台宗。聖徳太子が水浴した池のほとりに六角堂を建て、如意輪(にょいりん)観音を安置し、香花を供えて供養したことに始まるといわれる。この縁起のままを信用できないが、鎌倉時代の『続古事談(ぞくこじだん)』『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などにも六角堂の記述がみえるところからも、かなり古くから知られた寺であったことは確かで、しかも六角堂は効験あらたかな霊場として、西国(さいごく)三十三所第18番の札所でもあり、鎌倉・室町時代を通じて都の人々に親しまれ、その信仰を集めていた。15世紀の初め近江(おうみ)、河内(かわち)の声聞衆(しょうもんしゅう)によって曲舞(くせまい)が催され、観覧料を払っての見物がここで行われるなど、当時のいわば娯楽文化センターの役割をも果たしていた。
この六角堂の池坊の住僧で、頂法寺の司僧であった専慶(せんけい)(生没年不詳)がいて、1462年(寛正3)に挿花した記録が伝えられている。武将佐々木高秀が専慶を招いて数十枝の草花を金瓶(きんぺい)に立てさせたところ、「洛中(らくちゅう)の好事(こうず)者、来り競ひ之(これ)を観(み)る」とか、「皆その妙を嘆ずる也(なり)」と記されているように、そのころすでにいけ花の名手として知られていた。その後も池坊からいけ花に堪能の者が次々に出て、池坊がいけ花を家系とする基礎をなした。1599年(慶長4)に専好(せんこう)(初代)が京都大雲院の落慶供養のために催した花展の出瓶(しゅっぺい)者名簿に、東福寺の月渓聖澄(げっけいしょうちょう)が長文の序(『百瓶華序(ひゃくへいかのじょ)』、1600)を書いているが、そのなかに「六角と名づくる所あり、真に市中の隠なり。是(ここ)に由(よ)って寺あり頂法と号す、当(まさ)に其(そ)の乾(いぬい)の方、深居あり、名づけて池坊と曰(い)う、累代、華を瓶の裡(うち)に立つるを以(もっ)て家業と為(な)す。其の元祖を専慶と曰う。専慶より今の池坊専好法印に至る、累(かさねること)十三葉」とある。「累十三葉」というのは「専慶―専能―専秀―専勝―専和―専昭―専増―専明(初代)―専承―専誓―専応(せんのう)―専栄(せんえい)―専好(初代)」の13名である。このなかで専応、専栄の1500年代は、池坊の花が将軍同朋衆(どうぼうしゅう)の阿弥(あみ)系の花を押さえ、独占的な地位を確立した時代で、このころから口伝、伝書も多く著されている。池坊の花が立花(りっか)様式として大成するのは桃山時代から江戸時代にかけてであり、その活動の中心になったのは専好(2代)であった。この時代の池坊は桃山城郭建築にふさわしい豪華な立花形式を生み出し、当時の武将の求めに応じ、また後水尾(ごみずのお)天皇(在位1611~29)の立花愛好奨励もあって、天皇はじめ門跡(もんぜき)、公家(くげ)の間に出入りし、その催しや指導にあたるなど目覚ましい活躍をみせている。
元禄(げんろく)年間(1688~1704)にはその門下の大住院以信(だいじゅういんいしん)、高田安立坊周玉(あんりつぼうしゅうぎょく)、十一屋太右衛門(じゅういちやたうえもん)、富春軒仙渓(ふしゅんけんせんけい)らが活躍し、池坊立花はますます精美を尽くしたものとなり、『立花大全(りっかだいぜん)』『立花時勢粧(いまようすがた)』といった伝書が刊行され、その基本構成が確立するなど最隆盛期を形成するが、この時期を頂点として、立花は定型化し発展の歩みを止めると同時に、内部紛争もあり、やがて江戸いけ花生花(せいか)諸派がおこるに及んで、いけ花界における池坊独占の地位は後退する。その系譜は専好2代以後、専存―専養―専好(3代)―専純―専意―専純(重任)―専弘―専定―専明(2代)―専正―専啓―専威と続き、現家元の専永に至る。いずれにしてもその長い歴史のうえに築かれた潜在的地盤は、今日もいけ花諸流中最大の組織を維持し、とくに第二次世界大戦後、新しいいけ花の研究にも意欲をみせ、1952年(昭和27)には京都市に池坊学園短期大学を、60年には東京都御茶ノ水に池坊学園お茶の水学院を設立するなど、近代システムによるいけ花教育を実施して成果をあげ、現在国内に300余の支部をもち、海外にも多くの門下生を送っている。
[北條明直]
『大井ミノブ・小川栄一著『いけばな史論考――池坊を中心に』(1997・東京堂出版)』
いけばなの一流派。池坊とは,元来,京都六角堂で知られる頂法寺の坊の名であり,六角堂は室町時代には洛陽七観音の一つとして,貴賤の信仰をあつめた。また霊場として人々が集まりやすく,曲舞(くせまい)のような娯楽の催しもひらかれて,一般庶民に親しまれるところであった。それをさらに発展させたのが,いけばなとの関連である。15世紀の中ごろ,8代将軍足利義政の時代には,同朋衆をはじめ多くの花の名手があらわれたが,池坊の寺僧にも巧みに花を立てるものがあった。1462年(寛正3),池坊専慶が金瓶に草花数十枝をたてたのを《碧山日録》は,〈皆その妙を嘆ずる也〉とつたえ,1525年(大永5),池坊専応は《二水記》のなかで,〈池坊六角堂執行花上手也〉と記されている。16世紀の中ごろは,いわゆる天文口伝書の時代であるが,《池坊専応口伝》や《専栄花伝書》がつたえるとおり,いろいろの立花(たてはな)の系統が池坊のなかにまとまってゆく時期であった。桃山時代になると,ほかの流派はほとんどみられず,立花を家業とする池坊の位置は定着した。東福寺の月渓聖澄が池坊専好の花展のために書いた《百瓶華序(ひやくへいかのじよ)》(1600)には,池坊を〈累代,華を瓶裡に立てるを以て家業と為す〉とあり,また〈其の元祖,専慶という。専慶より今の池坊法印に至る,累十三葉〉と述べて〈累(かさね)ること十三葉〉と専慶から専好(初世)までの系譜をかぞえ,専好の技量を大いに賞賛している。池坊には3人の専好があった。桃山時代の初代から江戸時代にかけて,〈専好(初世)-専好(2世)-専存-専養-専好(3世)-専純〉とつづくが,初世専好は古い作風のたてはな(立花)にたいして,新しい花形のりっか(立華,立花)を起こし,七つ道具の役枝をあみだして様式を整備した。これを大成したのが2世専好である。寛永年間(1624-44)は彼の全盛期で,花は池坊といわれるほどに,いけばなにおける池坊の指導的地位を確立した。2世専好には門人も多く,大住院以信,高田安立坊周玉,桑原富春軒仙渓,十一屋太右衛門らがいて,池坊を支えていた。なかでも大住院以信の花は花材を駆使した奔放で変幻自在な妙味をもち,すぐれた技巧の作風であった。そのため形式化しはじめていた池坊立華からは異端視され,ついに江戸に下って池坊から離別した。このころから池坊を離れて新流派を起こそうという気運がつくられていくのである。その気運は,やがて新時代の趣向に添ったいけばなの要求となり,せいか(生花)を唱える流派が起こった。池坊もついには生花を認めるようになるが,生花を立華の小花として〈しょうか〉とよび,現在に至っている。専純のあと専意-専純(重任)-専弘-専定-専明(2世)-専正-専啓-専威-専永(現)の順でつづくが,専定は生花(しようか)の名手でもあった。また寛政年間(1789-1801),家本選の立華集として,《瓶花容導集》を選び板行するなど,伝統の強調にも熱心であった。門流も全国におよび,幕末期までの池坊は安泰であったといえよう。明治維新はいけばな諸流にとって,大きな転換期であった。池坊もしばらく沈滞していたが,古い伝統をもつため他流より早く復活し,明治のいけばな界に再び支配的地位を保つようになった。しかし池坊から離れて自由な創造をめざすものも多くなり,吉村華芸(かうん)の池坊竜生派,小原雲心の小原流などが成立,大正期にはいると安達潮花の安達式など斬新な作風の作家たちが独立し,創流をするようになった。第2次大戦後の池坊は近代の盛花や投入だけでなく,現代いけばなの研究にも力をそそぎ海外への進出もはかるようになった。1949年からは,毎年池坊全国展を開催,52年には池坊短期大学を開設した。70年代の後半から生花の正風体に対して新風体を創案し,さらに池坊固有の立華の伝承のために現代小立華の研究をすすめるなど,新時代の要請にこたえて門流の近代化につとめている。
→いけばな
執筆者:水江 漣子
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いけばなの流派,またその家元の姓。本来は京都の紫雲山頂法寺(通称六角堂)の塔頭(たっちゅう)名。池坊の僧が立花(たてはな)で有名になるのは,室町時代の専慶(せんけい)から。戦国期の専応(せんのう)の働きにより立花の主流となり,安土桃山時代の初世専好と江戸初期の2世専好の活躍により立花の流派は池坊のみとなった。寛文期に立花(りっか)(のち立華)を創出。化政期には専定・専明により生花(しょうか)の表現法が制定され,明治期に現在の正風体が成立。1952年(昭和27)には現家元専永のもとで学校法人池坊学園を設立し,いけばな教育の拡大をめざしている。
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…とくに茶道や花道のような客観的な技術の評価がむずかしい型の文化を伝授する芸能では,流祖以来血脈的な権威の継承が重要な意味をもち,なおかつ家元成立の条件として多数の素人入門者が家元を経済的に支えていることがある。池坊では1678年(延宝6)より門人帳が作成され,江戸時代後期になると茶道の堀内家の門人帳も作られるなど,各茶花道の流儀では家元に誓約をたてて入門する門人制が広く成立する。誓約の内容は家元の権限,弟子の義務にかかわるもので,その第一は免許権と教授権である。…
…現本堂は明治の再建,ほかに太子堂や親鸞堂などがあり,参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが,この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ,花道池坊を創始し,ついで天文年間(1532‐55)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し,朝廷や幕府や諸門跡に重用された。…
※「池坊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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