小国城跡(読み)おぐにじようあと

日本歴史地名大系 「小国城跡」の解説

小国城跡
おぐにじようあと

[現在地名]小国町小国小坂町

置賜地方から越後方面へ抜ける交通の要衝を占める小国小坂おぐにこさか町の北東部、小国盆地を一望するよこ川左岸段丘上に位置する平山城上郡山かみこおりやま城ともいい、応永年中(一三九四―一四二八)伊達氏家臣上郡山氏の築城と伝えるが不詳。これより以前、小国には奥州藤原氏の一族俊衡が配された(小坂館)とか、伊達氏九代政宗の時、粟生田備後守が一帯を領有したとの伝承が残る。戦国期は上郡山氏代々の居城であったと考えられる。

永正六年(一五〇九)八月、伊達尚宗は上杉定実・長尾為景加勢のため当城主上郡山氏らに対し出陣命令を下した(同月一一日「国分胤重軍勢催促廻文写」奥羽編年史料所収文書)。伊達氏天文の乱に際しては上郡山為家が稙宗党に属し、天文一一年(一五四二)一〇月には晴宗与党の小玉川こたまがわ城将遠藤平兵衛尉・舟山周防守らを攻め殺し、また稙宗と最上義守が合力して長井を制圧した旨を越後黒川くろかわ(現新潟県北蒲原郡黒川村)城主黒川頼実に告げ、頼実に稙宗に力を貸すよう要請している(同年一一月一四日「上郡山為家書状写」黒川文書)


小国城跡
おぐにじようあと

[現在地名]温海町小国

小国川の左岸、小国集落の南西に接するたて山と通称される標高約三四九メートルの丘陵上にある。築城年代は明らかでないが、南北朝時代越後の北朝方に備えて築かれたともいう。観応三年(一三五二)一一月二九日の三浦関又次郎入道覚円軍忠状(色部文書)に、同年八月八日「為小国以凶徒退治、茂実致発向同国浜中之時」とあり、当地にあてる説もあるが、越後国とするほうが有力である。天正(一五七三―九二)の頃、当城を拠点とした小国氏は庄内において重きをなしたらしく、同一四年最上義光と呼応する東禅寺氏永の反乱に際し、武藤義興は小国氏に藤島ふじしま(現東田川郡藤島町)を警備させ東禅寺氏の南下を防ぎ、その功により一族小国彦次郎の弟猿黒丸に高坂たかさか(現鶴岡市)を与えた(同年五月二日「武藤義興充行状」旧山形県史所収文書)


小国城跡
おぐにじようあと

[現在地名]最上町本城

本城ほんじよう村の中心、十日とおか町北方の丘陵、通称しろ山にある。南流する絹出きぬで川の左岸段丘上にあたり、標高は三二一メートル、比高は一一〇メートル。連郭式の山城で、頂上部の本丸跡のほか何段もの削平地が残り、ほかに土塁・空堀なども認められる。当初は岩部いわべ館と称した。築城年代は不明であるが、「小国郷覚書」「奥羽永慶軍記」などによれば戦国末期の城主は細川摂津守直元といい、当城により向町むかいまち盆地一帯を支配したという。天正八年(一五八〇)細川氏は山形城主最上義光の攻撃を受けて滅亡遺領はこの攻撃に功のあった蔵増くらぞう(現天童市)城主蔵増安房守に与えられた。一説には領域拡大を目ざす義光に敵対する天童城主天童氏と当城主細川氏が姻戚関係であったため攻撃を受けたともいわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「小国城跡」の解説

おぐにじょうあと【小国城跡】


山形県鶴岡市小国にある中世山城跡。山形県の西端、日本海から約6.5km東側の内陸部に入った小国集落にある通称「楯山(たてやま)」の山頂部を本丸としていた。麓から約235.5mという大きな標高差がある。東西約1030m、南北約950mの城域があり、本丸跡を全周する土塁と鋭い切り岸、登城道を守る4ヵ所の虎口の設置が特徴的。羽越国境の境目にあり、街道を押さえる山城として整備改修が繰り返された。戦国時代の庄内地方は、武藤氏と最上氏の抗争の時代であり、武藤氏、上杉氏、最上氏はともに小国城を羽越国境の重要支城として取り立てた。2002年(平成14)、国の史跡に指定された。JR羽越本線あつみ温泉駅から車で約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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