小塩庄(読み)おしおのしよう

日本歴史地名大系 「小塩庄」の解説

小塩庄
おしおのしよう

旧乙訓郡一帯、現京都市西京区・伏見区、向日むこう市、長岡京市、大山崎町にわたり、他領と入り組んで設定された広大な荘園

建長二年(一二五〇)一一月日付の九条道家初度惣処分状(九条家文書)によれば、道家自身の終焉の地として京都東山毘沙門びしやもん(現京都市東山区)に建立した光明峯こうみようぶ寺の寺領として、播磨国千草ちくさ(現兵庫県宍粟郡千種町)・備後国奴可東ぬかひがし(現広島県比婆郡東城町)と並んで施入。処分状には「山城国小塩庄可充寺用相折并護摩供料」とみえ、また一向寺家進止の荘園として他の二荘とは違って本家なく、また臨時恒例課役を充てるべきではないとしている。「教言卿記」応永一三年(一四〇六)一月一〇日条、「忠富王記」明応一〇年(一五〇一)二月三日条に「小塩保」の名称がみえるが、当荘の異称とは断定できない。「大乗院寺社雑事記」文明一五年(一四八三)五月一五日条には次のように記され、この荘園の概要を知ることができる。

<資料は省略されています>

この記録によって、総面積二八〇町歩余、年貢米はおもに四斗代で総計約九〇〇石、ほかに八幡神用米・将軍家馬草用途などの負担があること、小塩庄に所属する庄家はなく、他領に入り組んで存在するために、名主百姓らの居所は所々に分散していたこと、南は山崎やまざき(現大山崎町)から北は久我家領久我こが(現京都市伏見区)の範囲にあること、などが注目される。庄内の村々は大永二年(一五二二)小塩荘帳(寛文一〇年写、九条家文書)に記される。

はゝ村(馬場村、現長岡京市)六町一段半、おくかいせ村(奥海印寺村か。現長岡京市)一町三段、かいてん村(開田村、現長岡京市)一段、井の内村(現長岡京市)二段、いまさと(今里、現長岡京市)一町九段、かミ上野村(現向日市)八町二段半、かいて村(鶏冠井村、現向日市)一町一段六〇歩、ひし川村(菱川村、現京都市伏見区)一町六〇歩、し水村(志水村、現京都市伏見区)一町四段一二〇歩、古河村(現京都市伏見区)三町五段一二〇歩、おちあひ村一段、あかゐ村(赤井村、現伏見区)三町一段大、ひつめ村(樋爪村、現京都市伏見区)一町七段大、水足村(水垂村、現京都市伏見区)一一町三段半、よと村(淀村、現京都市伏見区)七段、古市村(現長岡京市)四町六段大、神足村(同)一町七段半、勝竜寺(同)一町三段大、しゆく村(現大山崎町)四段、北しゆく四段、てうし村(調子村、現長岡京市)四町小、しも上野村(現大山崎町)六段半、くかい村(久貝村、現長岡京市)二段、ゑん明寺(円明寺、現大山崎町)五段、山崎(現大山崎町)八町二段三〇〇歩、かみさと(上里、現京都西京区)一段大、

各村の面積は一筆一筆書きあげられているものを集計した。


小塩庄
おしおのしよう

善峰よしみね川以南の丘陵地から平野部にかけて位置、「大乗院寺社雑事記」文明一五年(一四八三)五月一五日条によれば、南は山崎(現乙訓郡大山崎町)から北は久我領(現伏見区)に及ぶ間に散在し、田数総計二八〇町余、年貢米九〇〇石と称される大荘園。成立は鎌倉前期にさかのぼることは確実である。

建長二年(一二五〇)の峰殿置文(「九条道家処分状」九条家文書)に「山城国小塩庄可充寺用相折并護摩供料」とみえ、九条道家が東山毘沙門谷びしやもんだに(現東山区)に建立した光明峯こうみようぶ寺の荘園として施入されている。道家はその置文で当庄の進止権は寺家にあるとし、九条家の関与を否定したが、これが後年当庄の支配権をめぐる九条・一条両家の争いをひきおこす原因となった(なお当地には当庄の他、三鈷さんご寺領小塩田が平安末期から史料にみえる)。

康永三年(一三四四)小塩庄預所職が一条家の門跡寺院である小野の随心ずいしん(現山科区)に安堵され(「康永三年三月二九日御教書」随心院文書)、一条家が当庄支配に乗出すきっかけとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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