小塩村(読み)こじおむら

日本歴史地名大系 「小塩村」の解説

小塩村
こじおむら

[現在地名]浮羽町小塩

耳納みのう山地の東端、隈上くまのうえ川支流の小塩川と大持だいもち川流域の山間に位置する。東は豊後国日田郡に接する。天正九年(一五八一)と思われる一〇月一〇日の大友府蘭書状(問注所文書/福岡県史資料一〇)に「前於小椎尾河内」とみえ、問注所統景の戦功を賞している。当地一帯は東山ひがしやまと称され、天文五年(一五三六)八月一一日、大友義鑑は由原神領三〇町を除いた生葉いくは朝田あさだ一〇〇町と「東山」を問注所加賀守に預け置いている(「大友義鑑預ケ状」同上)。「筑後将士軍談」は小塩村の東山城は小椎尾氏代々の居城と記し、また「当時御東ト称ス、今東山ト云、東名ニ山アリ、小椎之尾ト号ス、又東山ト云」と述べ、「小塩・新川・田籠・妹川・星野ヲ東山ト称スルハ是ヨリ起レリ」とある。「寛延記」は大友氏の輪番所と伝え、天正年中に秋月勢によって落城したという高井嶽たかいだけ城跡と、隈上川と小塩川の合流点の笹隈ささくま付近の古城跡をあげる。

小塩
おしおつじむら

[現在地名]加賀市小塩辻町

宮地みやじ村の南西にあり、地名は西の小塩村に通じる道の意という(加賀志徴)。南西敷地しきじ村から当村文兵衛もんべえ山・小四郎こしろう山の間を通って篠原しのはら村・新保しんぼ伊切いきりを経て、海岸沿いに安宅あたか(現小松市)にいたる道を富樫とがし街道という憩紀聞。この道が潮津うしおづ駅を通っていた古代北陸道に代わって平安時代末期頃から盛んに利用されたことは、篠原村付近が源平の合戦や南北朝争乱の戦場となったことからもわかる。しかし戦国時代にはのちに北陸街道として整備されるたちばな―敷地―動橋いぶりはしルートに取って代わられた。

小塩村
おしおむら

[現在地名]京北町大字小塩

山国やまぐに九ヵ村の一。大堰おおい川の支流小塩川の流域にある山間集落。小塩川を南に下れば井戸いど村に達する。古代は「和名抄」に記す山国郷に属する。中世末まで黒田くろだとともに山国庄枝郷(大布施杣)に含まれ、禁裏御料地。

地名の初見は、天元三年(九八〇)の某寺資財帳(金比羅宮文書)で、「小塩黒田三町」とみえる。文明一五年(一四八三)四月、後土御門天皇は井戸村の常照じようしよう寺の祠堂料として小塩村一二〇石を寄進した(東山御文庫記録)

小塩村
おしおむら

[現在地名]西京区大原野おおはらの小塩町(小塩)

善峰よしみね川支流の小塩川の谷に位置する山村。北を長峰ながみね、東を灰方はいがた、南は奥海印寺おくかいいんじ(現長岡京市)・摂津三島郡大沢(現大阪府島本町)、西は灰谷はいたにの各村に接する。釈迦岳が善峰寺の西南約一キロの山城・摂津国境稜線上にあり、海抜六三一・四メートルの三角点。登路はポンポン山からと、大阪府三島郡島本町大沢からとがある。眼下に善峰寺を望み、遠く京都盆地を眺望しうる。

村名は平安時代から歌枕としてしられる小塩山と関連があろう(→小塩山

小塩村
おしゆうむら

[現在地名]会津若松市大戸町おおとまち上小塩かみおしゆう

阿賀川東岸にあり、北は大豆田まめた村、東は闇川くらがわ村、西の対岸は小谷おや村。村内を下野国宇都宮へ向かう街道が通る。本村の南東二町に小名中小塩、本村の南三町五〇間に小名関屋せきや、中小塩の南東二町余の山麓に小名栃窪とちくぼ、関屋の南五町四〇間余に端村引下ひきしたがある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に尾塩とあり、高一九一石余。寛永二〇年(一六四三)より南山御蔵入領となり、小出組に属し、文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一九七石余。化政期の家数は本村一〇・中小塩八・関屋八・栃窪四・引下九(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数三五(寺一)・人数二一〇(人員録)

小塩村
おしおむら

[現在地名]加賀市小塩町

橋立はしたて村の小塩川を隔てた東にあり、北は日本海に面する。海辺は小塩浜とよばれる風光絶佳の地であったが、近年橋立港の築港で浜は狭くなった。「源平盛衰記」巻二八に寿永二年(一一八三)五月、平氏軍が木曾義仲を討つため越前から加賀に入り「後陣ハ黒崎・橋立・追塩」などに列を整えたとある「追塩」は当地のことという(三州志)。「三宮古記」の正和年間(一三一二―一七)と推定される「白山二季祭礼御供員数事」の「一膳分」に「ソイノ和布一盃ヲシヲノ浦ノ年貢也、高九寸」とある。白山宮祭礼に当地から和布が年貢として進納されており、白山宮の支配下にあったことが知られる。

小塩村
おしおむら

[現在地名]田尻町小塩

加護坊かごぼう山の西麓と標高一一メートルほどの低平地を占める。東・北は大貫おおぬき村、南は大沢おおさわ村とそれぞれ山や谷で境し、西は沼辺ぬまべ村と低湿地で接する。北・中・南の三集落からなる。寛永一七年(一六四〇)検地帳(宮城県図書館蔵)があり、田四五貫四二〇文、反別三八町五反余、うち上々田七反余・上田四町六反余・中田一〇町九反余・下田一七町余・下々田五町一反余、畑五貫六〇四文、反別一三町四反余、うち上々畑一町一反余・上畑三町一反余・中畑四町八反余・下畑四町余・下々畑二反余、名請人二四。正保郷帳でも同高で柴山と注される。「封内風土記」では戸数一三。

小塩村
こしおむら

[現在地名]中山町小塩

長崎ながさき村の北西、蛇行する最上川の右岸にある。白鷹しらたか丘陵の東縁にあたり、地内には塩江しおえ塩原しおはらなど塩のつく小字名がある。元和八年(一六二二)山形藩領となり、正保元年(一六四四)からは幕府領、宝暦一三年(一七六三)には米沢藩預地となり(旧山形県史)、明和二年(一七六五)幕府直轄領に復した。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一一六石余。寛文一一年(一六七一)の検地帳(柏倉文書)では高一二八石余。天保九年(一八三八)の村明細帳(高橋文書)によれば本田畑は高一二八石余、うち田方九〇石余・畑方三八石、ほかに新田分として六石余があげられ、家数は四八・人数二一四(うち山伏一・僧二)

小塩村
こしおむら

[現在地名]伊南村小塩

伊南川を挟んで古町ふるまち村の西にある。地元では「こしゅう」とも通称する。現在古町にもと小塩分の小字があるので、かつては東側対岸にも広がっていたが、伊南川が西に移動したため土地が削られたと思われる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「小塩 百六十四石九斗二升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免四ツ二分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高二〇六石余、免四ツ九分で取米一〇一石四斗一合、うち三三石八斗が米納で残りは金納。

小塩村
おしおむら

[現在地名]河内長野市小塩町・南花台なんかだい一丁目

天見あまみ谷の北部にあり、天見川を挟んで右岸の三日市みつかいち村と相対する。西部は丘陵で、緩やかな斜面にある。現河内長野市域の山間部の川筋には冷泉の湧き出る所が多く、茶褐色がかった水で多少の塩味がある。小塩・加塩かしおの小字名はこれよりきたものであろう。天見・三日市、横山よこやま(現富田林市)でも、冷泉を営業に使っていた(河内鑑名所記)。文禄三年(一五九四)一二月には小塩村二〇八石余が北条氏規領(北条家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二〇八石余、狭山藩北条領、ほかに近江膳所藩領山年貢高八斗余。以後、高・領主ともに変化なし。享和二年(一八〇二)の狭山藩領村方明細帳(中之島図書館蔵)によると、元禄一五年(一七〇二)検地(六尺五寸竿)が行われた。

小塩村
おしおむら

[現在地名]小野町塩庭しおにわ

赤沼あかぬま菖蒲谷しようぶや両村の南、夏井なつい川支流の十石じつこく川中流域の丘陵と山地に立地。磐城街道が東境をかすめて通る。江戸時代の領主の変遷は小野新町おのにいまち村に同じ。初め小野新町村などとともに宮古みやこ(仁井町)に含まれていたが、慶安二年(一六四九)までに分立して成立。同年の郡村高免記写(小松家文書)に小塩村とみえ、高二六八石余。

小塩村
こしおむら

[現在地名]岩瀬町小塩

村の北東部は山地で南半分は桜川流域の水田地帯となる。北は池亀いけがめ村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には四壁山六、溜池一、堰一があり、秣場は池亀・山口やまぐち各村に入り、人足一六人を山口村へ差出している。文化期(一八〇四―一八)の戸数一〇・人数五〇、馬四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android