日本大百科全書(ニッポニカ) 「小宮山昌秀」の意味・わかりやすい解説
小宮山昌秀
こみやままさひで
(1764―1840)
江戸後期の水戸藩の儒学者。字(あざな)を子実、通称造酒之介(みきのすけ)、次郎衛門、号を楓軒(ふうけん)という。昌秀は諱(いみな)。水戸の碩学(せきがく)立原翠軒(たちはらすいけん)の門下で、温厚篤実な歴史学者。1783年(天明3)彰考館(しょうこうかん)に出仕、1799年(寛政11)郡奉行(こおりぶぎょう)に転じて20余年間、紅葉(もみじ)村(茨城県鉾田(ほこた)市)に在勤、難治の村々の救済に尽くした。1830年(天保1)町奉行、1838年致仕。『大日本史』『垂統大記』(1839)の編纂(へんさん)に従うほか『水府(すいふ)志料』(1807成立)『水城金鑑』『農政座右』(ともに1829成立)など歴史・農政に関する編著が多い。その多くが、「小宮山叢書(そうしょ)」(600冊)として国立国会図書館に、「小宮山楓軒叢書」(140冊)として東京・静嘉堂(せいかどう)文庫に収められている。内藤右膳(ないとううぜん)筆の肖像画が水戸・彰考館にある。その業績は、門人大内正敬(おおうちまさよし)(玉江(ぎょくこう)、1784―1854)の『清慎録(せいしんろく)』に詳しい。
[秋山高志 2016年5月19日]
『「小宮山楓軒」(『森銑三著作集8』所収・1971・中央公論社)』