米田村
よねだむら
[現在地名]富山市米田・米田町一―三丁目・米田すずかけ台一―三丁目・豊若町一―三丁目・東富山寿町三丁目など
神通川東方の平地に位置する。南東の水落村に湧水があるため古くから水が得やすく、周辺の低地に位置する集落に比べ洪水の被害も少なく、かなりの米所として知られたことが村名の由来と伝える。中世は米田保の内とされる。正保郷帳では高八七三石余、田方五六町七反余・畑方一町五反、新田高六四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千五五石、免四ツ六歩、明暦二年(一六五六)の新田高一石があった(三箇国高物成帳)。ほかに同年までに米田新村など高二八一石余と他村と共同開発した犬島村領内牧田村に懸作分四五石を有したが、洪水および土不足でほとんど退転している。宝暦三年(一七五三)から一時期洪水などによる地味衰えで四歩の引免があった(以上、文政三年「引免立帰方詮議書上帳」市田家文書)。明和二年(一七六五)には質屋役銀三匁を上納(天保一三年「物成高書上帳」杉木家文書)。
米田村
まいたむら
[現在地名]十和田市米田
月日山に発する大不動川(藤島川)とそれに注ぐ長沢川、また万内川・種原川が東流する地にある。東南は五戸村(現三戸郡五戸町)、東北は伝法寺村、西は大不動村、西南は滝沢村、北西は切田村。
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に米田村、二二六石余とあり、同年の郷村帳によれば二二六石のうち一一八・〇三五石が田である。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では高三二五・三石で、七ヵ年の平均免は一ツ八分七厘二毛である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では蔵分四三石余、給分四二六・一石余で、馬四三四疋を飼養した。家数一九七のうち支村は一本松四三、種原九、細工屋敷五、中邑五、野月一二、北野一五、高屋五、石倉五、万内一二、於楚野沢一二、落合二、川尻九、平中七、小林六、坐留(笊)畑一〇、森越一〇、古外畑二、長下九とある。
米田村
よねだむら
[現在地名]高砂市米田町米田・米田団地・美保里
島村の東に位置し、南は洗川(現米田川)を隔てて中島村。印南郡に属した。鎮増私聞書(昌楽寺蔵)によると、応永八年(一四〇一)閏一月八日、鎮増は師慈伝を訪ねて米田定願寺に着いている。同一九年一一月一四日、大地震により米田の東西一〇里が壊滅した。同三二年七月二五日夜、定願寺にいた鎮増は加古川の大洪水で目前を流されていく者をなすすべもなく見ている。法花山一乗寺(現加西市)を建立した法道が空鉢を南海に飛ばして供養を求めたとき、これを拒否した宰府船頭の運ぶ正税が一俵残らず法花山に飛来。法道は一鉢以外はもとの船中に返却したが、途中一俵が落ち、落ちた所が当地とされ、米堕の地名説話となる(峯相記)。
米田村
こもだむら
[現在地名]いわき市鹿島町米田
矢田川中流右岸にあり、対岸は走熊村、南は飯田村、西は金成村、北西は三沢村。正応二年(一二八九)七月九日の関東下知状(岡本元朝家蔵文書)によれば「薦田郷地頭」は弘安九年(一二八六)冬に紀州熊野宮へ参詣し、閏一二月二七日に金成に帰着している。享徳三年(一四五四)七月一一日の道金譲状(同文書)によれば、金成村の四至として「北ハみさはこもたをかきつて」と三沢村とともにみえる。
米田村
よねだむら
[現在地名]南光町米田
佐用郡に属し、下徳久村の南、中島村の東、千種川(当地の称は熊見川)とその支流志文川との間に位置する。慶長国絵図に米田村とみえる。江戸期の領主の変遷は林崎村に同じ。正保郷帳では田方一九四石余・畠方六五石余、芝山有、小松はへ有と注記される。その後小山村を分村し、元禄郷帳では高二〇三石余。天保九年(一八三八)の庄屋手帳(間嶋家文書)によれば家数二七・人数一〇四、牛二〇。年貢米などは久崎村(現上月町)河岸へ道程一里一〇町、駄賃一匁で運び、赤穂へ津出しした(延宝七年「津出し道法等書上」同文書)。
米田村
こめだむら
[現在地名]出雲崎町米田
小竹村とは地境が不分明。西は出雲崎町、東は大門村。正保国絵図には「米田村」と「八王寺村」高九七石余の村で幕府領。元禄一四年(一七〇一)高田藩稲葉氏が下総国佐倉藩に所替えとなったとき以降天明六年(一七八六)まで稲葉氏の脇野町陣屋の支配。同年幕府領となり脇野町代官所支配。文政元年(一八一八)出羽国上山藩領となり七日町陣屋支配となるが、幕末には与板藩領である(旧高旧領取調帳)。年欠の出雲崎町敦賀屋一〇代政広書写の史料(敦賀屋文書)によると、当地には敦賀屋初代政易と惣領政盛によって明暦年中(一六五五―五八)より着手して寛文年中(一六六一―七三)に過半を開発した地がある。
米田村
よねたむら
[現在地名]五所川原市米田
松野木川の左岸に位置し、西は吹畑村、南は唐笠柳村、北西は漆川村に接する。
元文二年(一七三七)の検地帳に田方二八町三畝二一歩・畑方五町二反五畝八歩、田畑屋敷合せて三三町二反八畝二九歩、村高一七六・二二九石とある。同年俵元新田の一つに数えられ、享保一二年(一七二七)には「米田村元生田村改名」とあり、村位は下で、石盛は四ツ成(平山日記)、一時生田村と称したと考えられる。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に一一二・一石、文化九年(一八一二)に八〇・四石の新田高が書上げられている。
米田村
よねだむら
[現在地名]藤代町中田乙
谷中村の南に所在。相馬二万石の一部で、元禄郷帳に「古者総五郎新田」の注があり、古くは総五郎新田と称した。飯田総五郎が開拓した新田村(北相馬郡志)で、寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば下総高岡藩領で、村高一六三・一石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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