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小笠原貞慶 おがさわらさだよし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小笠原貞慶
おがさわらさだよし

[生]天文15(1546).信濃
[没]文禄4(1595).5.10. 下総,古河
安土桃山時代の大名。長持の子。幼名小僧丸,喜三郎と称した。右近大夫。父祖より小笠原家伝来の射芸礼法を受けたが,武田信玄に敗れて京都に流浪,織田信長に仕えた。織田滅亡後,松本城に入り,上杉,北条,さらに徳川家康に従ったが,豊臣秀吉に通じた。のち再び家康に仕えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小笠原貞慶 おがさわら-さだよし

1546-1595 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年8月12日生まれ。小笠原長時の3男。天文21年ごろ武田信玄によって父とともに信濃(しなの)府中(長野県松本市)を追われ,父とわかれて織田信長につかえる。のち徳川家康の支援をえて深志城にはいり,旧領を回復。深志を松本と改称した。天正(てんしょう)15年家康の配下にはいり,18年小田原攻めに参加した。文禄(ぶんろく)4年5月10日死去。50歳。幼名は小僧丸。通称は喜三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

小笠原貞慶

没年:文禄4.5.10(1595.6.17)
生年:天文15.8.12(1546.9.6)
安土桃山時代の武将。長時の3男。幼名小僧丸,通称喜三郎。右近大夫。父が武田信玄によって信濃(長野県)を追われると上京して三好長慶を頼り,のち織田信長に従う。天正10(1582)年に信長が死ぬと徳川家康の後ろ盾で深志城に入り,旧領を回復して同地を松本と改称した。同13年に豊臣秀吉に属すが,2年後再び家康の配下に戻る。同17年,子の秀政に家督を譲り,翌年秀政が下総国葛飾郡古河に移封されるとこれに伴い,同地で死去した。小笠原氏近世大名としての基礎を築いた策略家であった。

(笹本正治)

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世界大百科事典 第2版の解説

おがさわらさだよし【小笠原貞慶】

1546‐95(天文15‐文禄4)
安土桃山時代の武将。長時の子。1552年ころ武田信玄に攻められ,父とともに信濃を去り,のち織田信長に仕える。82年(天正10)徳川家康の援を得て父の旧領を復し,松本城に拠る。85年家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに走ったとき秀吉に通ずる。87年秀吉の命で再び家康の指揮下に入る。90年小田原征伐に参役。のちに子の秀政の領地下総古河へ移り没する。【笹本 正治】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小笠原貞慶
おがさわらさだよし
(1546―1595)

安土桃山時代の武将。小笠原長時(ながとき)の三男であるが正嫡となる。母は仁科盛明(にしなもりあき)の娘。長時は武田信玄の信濃侵攻によって敗れ、1551年(天文20)に父子ともに越後国の上杉謙信のもとへ逃れる。翌年には上洛し、三好長慶を頼り幕府にも接近、貞慶は足利義昭の家臣となる。長慶・義昭らが織田信長に敗れた後、信長に仕えてその東国政策に従った。1582年(天正10)本能寺の変後、貞慶は徳川家康の援助で信濃に侵攻、旧領を回復して深志城(ふかしじょう)に入り深志を松本と改称、小笠原家の再興を果たす。その後一時家康から離反するが、1586年に家康が豊臣秀吉に臣従すると、秀吉の命により再び家康に属した。1589年に嫡子秀政に家督を譲り、同年秀政が家康の嫡男信康の娘を娶ることによって、徳川氏との関係を深めた。翌年の小田原攻め後の家康の関東転封により、秀政は下総国(しもうさのくに)古河(こが)3万石に封じられ、貞慶もこの地に移り1595年(文禄4)に没した。[本多成]
『粟野俊之著『織豊政権と東国大名』(2001・吉川弘文館)』

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