小笠原貞頼(読み)オガサワラサダヨリ

デジタル大辞泉 「小笠原貞頼」の意味・読み・例文・類語

おがさわら‐さだより〔をがさはら‐〕【小笠原貞頼】

安土桃山時代初期の武士信濃の人。小笠原諸島発見・命名者と伝えられるが、実在確証はない。生没年未詳。

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朝日日本歴史人物事典 「小笠原貞頼」の解説

小笠原貞頼

生年:生没年不詳
安土桃山時代の武将通称七郎,又七郎。民部少輔。小笠原諸島の発見者と伝えられる。信濃(長野県)の領主長時の孫(曾孫との説もある),松本城主貞慶の兄長隆の子。織田信長,豊臣秀吉,徳川家康に仕える。文禄2(1593)年,朝鮮出兵の帰陣に際し,しかるべき島があったら取ってよいとの証文家康から得,小笠原諸島を発見,秀吉に安堵されたという。しかし確かな史料は存在せず,貞頼の名は,『小笠原家譜』や『寛政重修諸家譜』など江戸時代にできた家譜には記されていない。<参考文献>『翁草』20巻,中島次太郎『小笠原氏虚像実像』,『松本市史』上

(笹本正治)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小笠原貞頼」の意味・わかりやすい解説

小笠原貞頼
おがさわらさだより

安土桃山時代の武将。生没年未詳。小笠原長時(ながとき)の曾孫といわれるが、系図などにはみられず定かではない。織田、豊臣、徳川の3代に仕え、小田原攻めや文禄・慶長の役にも従軍したという。その後、家康の許しを得て無人島の開発を行い、1593年(文禄2)に3島を発見。家康が発見者の名前をつけることを許したため、小笠原諸島と命名されたという。この点は確かな史料がなく、発見時期にも矛盾があり、真偽は疑わしい。

[本多隆成]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小笠原貞頼」の解説

小笠原貞頼 おがさわら-さだより

?-? 織豊-江戸時代前期の武士。
信濃(しなの)(長野県)松本城主小笠原貞慶(さだよし)の兄長隆の子という。豊臣秀吉の小田原攻め,朝鮮出兵に参加。徳川家康の命をうけ,文禄(ぶんろく)2年(1593)伊豆(いず)下田より出航し,3島を発見して小笠原島と命名したというが,真偽はさだかでない。通称は彦七郎,又七郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小笠原貞頼」の意味・わかりやすい解説

小笠原貞頼
おがさわらさだより

安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に仕え,小田原征伐や朝鮮役に従軍。南海に群島を発見して小笠原島と名づけたというが,『小笠原家譜』『藩翰譜』などには貞頼の名はみえず,その所伝の真偽は明らかでない。 (→小笠原諸島 )

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世界大百科事典(旧版)内の小笠原貞頼の言及

【小笠原諸島】より

…ミカンコミバエは1985年根絶が確認され,果物などが島外へ持ち出せるようになり,アフリカマイマイ,ヤギについても97年現在,駆除が続けられている。【浅海 重夫】
【歴史】
 小笠原諸島の呼称は,1593年(文禄2)豊臣秀吉の命で南方航海をした小笠原貞頼が発見し,のち徳川家康が発見者の名をつけることを許したからと伝えられる。すでに1543年(天文12)スペイン人ビラロボスが一部発見していたともいわれるが確証はない。…

※「小笠原貞頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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